書くとは何の謂いか

Was heißt Schreiben?

神経質さ、あるいはhighly-controlledなテクストについて

 自分は文章が下手だと思う。ときどき「文章うまいね」と言ってくれる人はいるし、褒められて「そうか文章がうまいのかー ははは」とちょっとだけ思ったりすることはあるけど、基本的に自分の文章がいいとはあまり思っていない。もう5年ぐらい前に、「文章うまいし本出してくれたら買いたい」なんて言ってもらえたこともあったけど、(そしてどの程度本心で言ってくれたのかはわからないけど、)お金を出してまで自分の文章を読みたい人は、まあいないと思う。
 
 文章が下手になったのだろうか。とりあえず話をこのブログに限れば、まず文体が気に入らない。読んでると、だいたい文末でなんだか調子が狂ってしまう。書いてるときも、いつも文を無理に中断させているか、無理に引き伸ばしているような気持ちになる。ここで文が終わると思ったら続いたりするし、まだ文が続くと思ったら終わったりする。気に入らないことはわかるのだから、直せる気もするが、なぜか直せない。どこで区切ろうと思ってもしっくりこない。
 
 文体以外には、記号の使い方も気に入らない。この前人間に、鉤括弧の使い方が気に食わないと言われたけど、実際たとえば、卒論やレポートであれば〈山括弧〉を用いていたであろう箇所も、傍点を振っていたであろう箇所も、すべて鉤括弧にしているので、書いているほうとしても、かなり落ち着かない。まあブログで山括弧とか使うのもどうかと思うけど、傍点は振りたい。傍点大好きなので。
 
 心中表現だし丸括弧かなあ、という部分も鉤括弧にしている。何なら今のように心中表現として扱っても良さそうな箇所でも、鉤括弧を使ってないことだってある。丸括弧はもっぱら(こんな感じの)補足に限定して使っている。ところで最近、『言語哲学大全I』を読んでいたときに、著者の飯田隆
 
これは極端な例であるが、これほど極端でなくとも似たような誤解は、しばしば見受けられる(しかも、学生だけとは限らない)。(5頁)
 
思考の表現手段としての言語への不満は、近代の「観念」の哲学においても、しばしば表明されて来た(現代により近い哲学者の中では、ベルグソンが、その顕著な例である)。(38頁)
 
というふうに、()の中に「。」を入れないで外に打つ場合と、
 
単なる健全な常識ではまったく歯が立たないような論証に哲学は満ちているのである。(もちろん、健全な常識こそが最良の武器となるような詭弁的論証も存在するが。)(5頁)
 
哲学の議論は、議論である以上、言語を用いてなされる。(それ以外に、どう、やりようがあろう。)(39頁)
 
というふうに、一文を丸々括っている場合とを、使い分けていることに気づいた。自分は、それまでは使い分けずに、ずっと丸括弧の後ろに句点を打ってきたが、気づいてからは「へー そんな用法があるのか」と思って、最近は使い分けるようにしている。(そしていったん使い分けるようにすると、前者の用法はあまり使わなくなってしまう。)
 ところで「本を読んでいたときに」と上で書いたけど、さっきまでその箇所は「本を読んだりしていたときに」と書かれていた。最初は、「読んだり」に並列される動詞はなくても別にいい、ということにして、気にすることなく書き進めていたが、書いていくうちに気になってきて、結局その前後も一緒にすべて書き換えてしまった。
 助詞の「と」も、「句読点を外に打つ場合と、一文を丸々括っている場合とを」なんていちいちつけてしまった。基本的には可読性が気になるときにつけるが(そしてだいたいいつも気になってつけるのだが)、今回は、可読性というよりもむしろ無性につけないといけないような気がした。
 
 
 本当は、このブログではそういう制約から解放されて文章を書きたいと思っている。
  
 だから、いったんは口語的にあれこれ書いてみるのだが、大抵の場合あとで気になってしまう。そのあたりが中途半端な文章はだいたい読みづらいし、ぎこちない。どうせなら、もっと「徹底的に」気にしないで書きたい。ただ一方で、自分の中でルールを設けて統一したいとも思っている。ある程度の統一がないと、アナーキーで読みづらくなるだけだろう。
 ゆるやかな規範に従うことを覚えたい。あるいはおそらく同じことだろうが、ゆるやかな規範を創造したい。ところで「ゆるやか」という言葉は比較的好きで、「さしあたり…とゆるやかに定式化しておこう」とか、原稿でよく書く。ちなみに「さしあたり」も好き。
 
 「ゆるやかな規範」というのも、じつはたぶん正確ではない。本当はなにも考えずにキーボードを叩いて、それをそのままブログの記事にしたいのだ。昔はそういう感じで書いていたのだが、できなくなった。自分の文章に対する批判的な視線が内面化してしまったのだろうか。
 
 理想は、情報が頭の中に入ってきやすい、とにかく読みやすい文章である。論旨が明晰な文章とか、いわゆるクリアな文章も書きたいけど、それは一番の理想ではなくて、横書きなら左から右へと視線をズラすだけで内容が流れ込んでくるような、そういう負担なく読める文章を書きたいと思っている。
 ちなみに美文を書きたいとはあまり思っていない。書けるに越したことはないだろうが、書けなくていい。エモい文章も書きたいともあまり思っていない。これも書けるに越したことはない。最近、文学的感性が欠落していると人から言われることがよくあるけど、それは事実だと思う。実際、あえて極端に言えば、綺麗な景色を表現したければ、たんに「綺麗な景色が広がっていた」とだけ書くのがいい、なんて思ってしまう。 
 ここまで極端に言ってみると、「自分は本当にこんなことを思っているのか」という疑問が湧いてくる。本気で思っているわけではない、と補足しておきたいが、ただそれでも、無理にレトリックを駆使するよりは、そっちのほうがシンプルだし、なにより雑な表現だからこそ、自由に想像してもらえると思う。
 
 というか、今まで全然意識したことがなかったけど、もしかして小説を書く人の中には情報量を意識して調整する人たちもいるのだろうか。最初の一行から最後の一行までずっと、綺麗な景色が広がっていた、みたいなレベルの情報量しかなければ、読むほうも想像可能性の自由さを、かえって不自由に感じてしまうかもしれない。自分なんかは、風景や登場人物の容姿が丁寧に描写されていると、読むときに不自由さを感じる。もっと情報量を減らしてほしい、と思う。(書いてあることを書いてある通りにきちんと処理するのは、とても苦手だ。)
 小説を書く人の中には、そのあたりの妙をわかっていて、「ここは初期情報として設定してやる必要があるから、丁寧に情報を書く。ここは想像してもらえるように大雑把に書く」とか、そういう加減をする人たちもいるのだろうか。そんなことを計算づくで統制できる人はプロフェッショナルな感じがする。カッコいい。
 
 
 統制されている文章、が好きだ。書き手による高度な統制が効いている文章。卒論を書いてみて、アカデミックな文章は総じて書き手による高度な統制が働いていると、実感を伴ってわかった。
 
 マクロには、論述の順序や構成。伝えたい内容を説得的に伝えるには、どういう構成が望ましいと考えられるか。どういう議論が必要か。最低限どういうことを説明する必要があるか。
 具体例を出すとき。具体例をどのように発想するか、どのポイントを保存したくてその具体例を選んだのか。あるいは引用するとき。解釈、あるいは批判の対象としてなんらかのテクストを引用をするときに、その引用をどこから始めるか、どこで切るか、どこを省略するか。
 そういえば、テクストAの引用に参照指示を振るとき、他のテクストBへの参照指示もなんとなく書いてしまいがちだったが、あれは、AとBとになんらかの連続性が認められるかぎりにおいてでしか(あるいは、二つのテクストに無視できない断絶が認められないかぎりにおいてでしか)、振ることは許されないのかもしれない、と今になって思う。
 
 他方でミクロには、文と文の間の接続語。この文とこの文を接続するときにはどういう接続語が最適か、そもそも接続語が必要か、どういう論理関係があると考えられるか。たとえば換言か、要約か、敷衍か。あるいは形容詞も、たとえば「大きい」と「大いなる」では語感が違うし、副詞についても「おおまかには」や「ただちには」といった文言の有無が、文(あるいは文章全体)に対して大きな影響を与えることは珍しくない。 
 上で述べたような括弧や傍点の有無もそうだし、句読点の位置も、一意的な可読性を保つために重要な役割を担っている。それと、日本語で書いていると意識しづらいが、数詞なんかもわざわざ書かれているときは重要な情報だと思ったほうがいいだろう。「一つの経験を可能にする一つの時間・空間」とか。
 
 
 べつに網羅的に書くつもりはなかったのだが、なんだか自分にとって判明にわかっている範囲で、それなりに網羅的に書いてしまった気がする。とにかく、高度に統制された文章というのは、こんな感じで、文章の一字一句、どの表現をとっても書き手による明確な意図にもとづいた選択がなされているものだと思う。
 
 自分の経験を言えば、こういうアカデミックな文章は、それを読んだり書いたりすることに慣れていなかったときは、冗長で不明確で、「装飾」の過剰な文章としてしか受け取ることができなかった。しかし一度こういう書き方を意識的に訓練してみると、これまで自分の書いてきた文章が、きわめて緩慢であったことに気づかされる。書くときに統制ができていなかったころの文章は、誤読を誘い込む余地に満ちていて、危なっかしいものに感じられる。そしてまた、こういうふうに、文章を書く際に可能な選択の「全体」を意識してみると、読むときにも、一字一句の重みがこれまでとは違って感じられる。高度に統制されたテクストは、一文一文が、よくできた物語の伏線のごとく緊密に張り巡らされているとわかる。
 ところで、世の中には、高度に統制されていながらも、多様な解釈を許容するテクストというのがおそらくあって、これはどういうことなのかよくわからない。統制が徹底的ではない、という素朴な原因に回収されるものなのだろうか。あるいは、多様な解釈を許容するように統制されているのだろうか。まあ当然テクストにもよるだろうが、たとえば『存在と時間』は、高度に統制されているように見える一方、ハイデッガー自身は誤解されたと思っていたわけで、これはハイデッガー自身の考えていたことが異常に難しかったために、高度な統制を試みたがそれでも追いつかなかったとか、そういう事情なのだろうか。
 
 
 自分の卒論を、何度か読み返して、この箇所はかなり神経質になって書いたなあとか、この箇所はデタラメに書いてしまったなあ、とか、さまざまなことを思った。そして、そういう配慮を読んだ人にちゃんと汲み取ってもらえると嬉しくなる。伝わらないときは、自分の書き方が悪かったのだろうと思う。(もちろん自分も人間だから、相手の読解力を恨むことだってある。)
 
 このブログではそういう神経質さからは解放されたいと思っている。あるいはいっそのこと、ごく自然に、神経質に振る舞いたい。前回の記事なんかはかなりデタラメに書いたので、話の焦点がかなりぼやけてしまったように思う。まあ、混雑した頭の中を書き出して、日を置いて、読み直して、考えが整理されたというのもあるので、書いている最中はなにも明確ではなかったのだが。場合によっては、アレを読んで整理されたこと、新しく思ったことを書いてみてもいいかもしれない。
 
 
 ところで、ちょっと変な話でもあるとは思うのだが、このブログは(非公開アカウントの)Twitterよりも正直に書きたいとも思っている。それで「神経質さ」に関連して本当はこの記事に書きたかったことがもう一つあったが、ここまでで少し長くなってしまったので今回はやめておく。また神経質さについて書きたくなったときに書こうと思う。

わからないこと、あるいはわからないということについて

 なぜ哲学を勉強しているのか。ここ一週間ほど頭の片隅でぼんやりと考えていたが、まったくわからなかった。もちろん「なぜ」という問いが要求する答えは場面によって変わるわけだが、それを考慮する必要はとくにないだろう。あらゆる意味で、理由が見つからないからである。
 
 たとえば一つの回答として実存的な動機が考えられるだろう。要するに、なにか悩んでいることがあって、それを考えたくて哲学を勉強し始めた、とか、そういうタイプの動機である。「なぜ哲学をやっているのか」と訊く人の多くは、このタイプの動機を知りたくて質問をしているのだろうと自分は思っている。そして、「なにか悩みがあって哲学をやっている」というのが、哲学科に対する一般的なイメージでもあるのかな、と思っている。
 実際のところ、哲学をやりたい人が全員何かしら悩みをもって哲学をやっているかというと、そういう治療的な感じで哲学をやっている人は(意外と)少ない、というのが四年間哲学科に在籍しての印象である。逆に、勉強する理由に何が多いのかはよくわからないが、たぶん「こういうことに昔から関心があって考えたい」とか、悩みというよりは知的好奇心で哲学をやっているケースが大半かと思っている。(もちろん知的好奇心を満たす、というのもしばしば一種の治療でありうるだろうとは思う。)
 
 自分の場合、そういう動機はまったくないわけではない。二回生の初めのころだったが、時間が流れていくこと、あらゆるものが総じて生成変化していくこと、そうした時間の暴力性にとても耐えられなくなった時期があった。
 きっかけは、母校の文化祭を訪れたことだった。パソコンに残っていた昔のメモなどを見たかぎりでは、もっと以前から時間の暴力性にある種の非情さを感じていたようだったが、とくにこのときが一番切実に感じられていたと思う。あらゆる生成変化が自分を置き去りにして、ただひたすら加速していくような、そういう疎外感を覚えていた。母校になにか思い入れがあってそう感じたというよりは(まあ思い入れはあると言えばあるのだろうが、もっと屈折して、あまり健全ではない、そういう感情だと思う)、こんなことを書くのも恥ずかしいのだけれど、恋愛関係がその根底にあって、そういう疎外感を覚えたのだと思う。言葉だとか感情だとか意味だとか、そういうものが、あまりにもたやすく忘れ去られること。時の流れがもたらす、そういう変化に反抗したかったのである。
 
 こうした疎外感から、やがて「あらゆるものが生成変化するこの世界において、永遠性はどこにあるのか」という問題について考えるようになった。当時は、「なぜ時間は流れてしまうのか」といったように、これを時間論の問題として扱おうとしていた。そんななか、どういう気持ちで手に取ったかは忘れてしまったが、ハイデッガーの『形而上学入門』を読む機会があった。そしてそこで彼が、存在を現在のみに定位して解釈することに対して批判を向けていると知って、直感的に、「彼は過去や未来といった領域を護ろうとしていたのではないか」「これは自分が考えたいことに、何かしらのヒントとなるのではないか」と思ったのである。(ちなみにこの直感がどの程度正しかったかどうか、ということにはとくに関心はない。)
 そしてハイデッガーの時間論に関心を抱き、いろいろ読んでみたのだが、まあ無理だった。解説書や入門書を探ってみてもわからないし、肝心の『存在と時間』を読もうにも意味不明。貧弱な頭しかなかったので、木田元の書いたものを読んで「なるほどー」と思うのがやっとだった。今思うと、表面的な知識を頭に入れるのが精一杯だったのか、根拠のない断定が紛れ込んでいても気づかなかったし、まったく哲学的な読み方ではなかった。とにかく、そうしてしばらく何もわかっていない、あるいは同じことだが、概念とその連関を形式的・表層的にしか理解できていない、そんな時期が続いていた。
 
 少しずつ分かり始めてきたのは三回生の夏休みごろだった。カントやフッサールがちょっと理解できるようになると、ハイデッガーもだんだんとわかるようになってきた。たとえば「本来性」と「非本来性」というのは、カント倫理学で言うところの「人格」と「物件」の区別に対応するんじゃないかなあ、とか、そんなことをぼんやりと思っていた。そんな感じで、「これはこういうことかなあ」と考えているうちに、存在一般の意味への問いがとても身近なものとして感じられるようになってきたのである。(というより、それまでは時間に関心はあっても存在に関心はなかった。)
 そんなこんなで哲学的に物心がつき始めると、カントとフッサールの「超越論的観念論」に興味を抱くようになった。この哲学的教説は、総じて存在者を、生々流転する「現象」と永遠不変の「物自体」とに区別する考えと言っておけば、おそらく大きな間違いはないだろう。というより、当時の自分はそういうふうに理解していたので、「もしかしてこれで永遠性の問題が解決するんじゃないか」と思ったのである。
 だから、どこかの誰かから、メイヤスーが「まったく偶然的にすべては崩壊しうる」だとか主張しているのを聞いたときは、「自分の退けたい暴力性を最も極端な仕方で先鋭化しているやつがいる!」と、倒すべき敵が出てきたのを喜んだし、「なんだか応答責任がある気がする!」とよくわからない使命感に満ち溢れてもいた。
 ちなみに、卒論でメイヤスーに言及する気はもともとなかった。人から、「なんで存在者の存在についてこんなに考えたいと思っているのかわからない」というコメントをもらうことがあって、「実存的な動機とか卒論からは消したかったけど、あまり書く機会はないだろうし、せっかくだし書いてみてもいいかなあ」と思ったりして、それで提出間近になっていろいろと付け加えた。足して論文として完成度が上がったかどうかはよくわからないが、自分としては「なんか今なら黒歴史を生産しても許される感じがするし、もしかしたら偉そうなことが書ける最後のチャンスかも」と思いながら書いていた。執筆中、一番あのときが楽しかった。
 
 
 と、まったく予定外だったが、なぜ自分が超越論的観念論をいいと思っているのかを書いてしまった。ただ、超越論的観念論によって確保されるのは、一見して暴力的なまでの変転を見せることもある現象をじつは統制している「規則」であって、それは(いろんな人に指摘をもらって知ったのだが、)永遠性というよりはむしろ「斉一性」と言ったほうが適切なものだったように思う。たぶん、自分がもともと護りたいと思っていたものとは、少なからず違うのだろう。
 また、今は永遠性を護りたいと思っているかというと、正直そういうわけでもない。以前抱いていたほど切実でなくなった、というのはあるにせよ、最近はむしろ永遠性にどこか恐怖を感じることが多くなった。ずっと変わらないでいることよりもいつでも変われることのほうが、なんというか、柔軟だと思う。
 
 そういうわけで、実存的な動機はたしかに出発点としてはあったものの、今は希薄かなあと思っている。知りたいと思っていることはなくはないが、自分がやらなくても解明される気がしてしまうし、そしておそらくそれを読んだら満足してしまうだろう。
 
 
 一週間ほど、あるいはそれ以前から、頭の片隅でぼんやりと気になっていたことを言うのだが、哲学を勉強したいと思っている人たちは、幼いころに独我論的な気持ちになったり、反自然主義的な気持ちになったり、観念論的な気持ちになったり、有限的な気持ちになったり、とにかくそういうなんらかの気持ちになっていたりしたのだろうか。そうだとすると、自分はそういう気持ちを抱いた経験が、記憶の及ぶかぎりでは見当たらないし、なんだか引け目のようなものを少し感じてしまう。哲学を勉強してみようと思ったもともとの動機も、今思うと勘違いにもとづくものでしかなかったし、じつは自分はあんまり哲学をやりたいと思ってないんじゃないか、としばしば思う。
 
 まあ、そういうことは一回生のころから思っていたことでもある。自分の求めていたものが哲学にはないように思われて、まったく面白く感じられなかったし、適性もあまりないように感じていた。
 それで、とにかく無気力で大学にほとんど行ってなかったぐらいだったのにもかかわらず、上述してきたような感じで、二回生のころにめでたく勉強したいと思えるようになったわけだけど、この話にはもう一つ裏のようなものがあると(以前から)思っている。
 
 要は、ストーリーに乗っかりたかったのだ。「実存的な悩みを抱えていたときに哲学書を読んでみたら、なにか直感的に掴み取れたものがあって、そこから問題が解消される糸口を探っていこうと思って勉強を始めた」というのは、ありがちだし、わかりやすいし、なにより「こういう動機で哲学を勉強できたらカッコいいなあ」という自分の潜在的欲求を満たしてくれる筋書きだった。そう考えてみると、あのとき抱えていた「悩み」も、ストーリーに乗っかりたくて捏造されたものにすぎないんじゃないか、と思えてくる。
 そういうストーリーに乗っかって、あたかも「自分は寝ても覚めても存在について考えてます」みたいな顔をして、ゼミに出席して、講義を受けて、読書会をやって、飲み会で会話して。まあ、そういうふうに振る舞っていれば本当は自分がどう思っているのかなんてことはよくわからなくなってくるし、実際のところ、とても楽しかった。
 
 今は、言ってみれば「シラフ」に戻っている時期なのかなと思う。これまで乗っかっていたものの脆さに直面した、と言うべきなのだろうか、ちょっと違う気がするけど、まあ大きく外しているわけではなさそう。いや、根拠が無だったということに気づいた、と言うべきなのかもしれない。わからない。わからないといえば、「自分がなぜ哲学を勉強しているのか」も、こうやって書いてみたら少しはわかるかと思ったが、よくわからないままだった。
 
 ただ一つわかったことがあるとすれば、何かに乗っかりたいという気持ちはもうあまりないらしい、ということである。

混雑した自己了解について

 とある人に、「自分のことを全然話さないね」と言われた。
 
 とくにそういうつもりでもなかったし、話すべきことがあるとすれば、それはもう一通り伝えたような気もしていた。つまり、自分のことを話す必要性をあまり感じていなかった。
 自分の話というと真っ先に思いつくのは、好き嫌いとか趣味とかよりもむしろ、過去に経験したこととか、とにかくそういうのだが、自分の過去を振り返ってみても、誰にでも話せるような内容はあまりない、と思っているし、いつからか、親しい人間に話すとしても、それは最低限で済ませよう、と思うようにもなった。
 
 昔から人見知りするほうではあったものの、以前は、打ち解けさえすれば「いろいろと自分のことをすぐ話すね」と言われたりしたこともあったように思う。けれども、他人がどれぐらい自分に関心があるのかとか、一方的に早口で文脈を無視して喋り始めたりしてしまってないかとか、そういうことが気になり始めるようになって、いつしか自分の話をするのに、極端な抵抗が出てきてしまったというのも事実である。「自分のことを話さないね」と言われて、初めて自覚的になった。
 
 この「初めて自覚的になった」という言葉が示唆的かもしれない。自分のことを話さないと、自分の考えていることや思っていることを言語化せずに、あるいは言語化するとしてもせいぜいおおざっぱなラベルだけ貼り付けて、奥底に沈めておく、といったようなことが増えて、とにかく大抵のことは自覚的にならない。言ってみれば、自己了解が混雑した状態になっている。
 そのせいなのか、自分が何を好きで何を嫌っているかなんてことも、じつはよく知らないし、仮に好きか嫌いかがハッキリしていたとしても、なぜそれを好んでいるのか、なぜそれを嫌っているのかがわからない、といったようなことも珍しくない。もっとも、この程度の自己了解の混雑は一般に珍しくないかもしれないが、自分の場合は、たとえば本はもちろん、漫画やアニメやゲームなどに触れたときに、感想・コメントを求められても、なんだかぼんやりとしたことしか言えない、という程度に、自分が何を気に入って何を気に入らなかったのか、楽しかったとかつまらなかったとか、そのぐらいの素朴な感想は抱いても、具体的に何なのかはまったく言えないということが珍しくなくて、けっこう真面目に困っている。
 
 こういうふうに言語化をサボることの弊害は自己了解以外の面でも見られて、たとえば、時事ネタとか、またTwitterでタイムラインに流れてくるさまざまなツイートとかに対して、ぼんやりと思うところがあっても、ぼんやりと思ったまま見なかったことにしたり、そのまま忘れたりしている。ときどき「何を考えているかよくわからない」と言われることがあるけれども、おそらくほとんど何も考えていないというのが実情に近いのだと思う。
 
 言語化をサボっているくせに、先に書いた自分の話をすることへの抵抗もあいまって、自分の言語行為が周囲に対してどういう影響を与えるかがすごく気になり、Twitterが少し窮屈になってしまった。
 「これをツイートするのはどうなのだろうか」ということをよく考えてしまう。鍵アカウントだし、スクショでも撮られないかぎりはべつに炎上するということはないとは思うものの、140字以内の文字情報で何かを誤解なく伝えるのは難しい。字数を費やせばいいのかもしれないけど、ツイートをして、それに続く次のツイートを考えているうちに、なんらかリアクションがきてしまうのではないか、とか考え始めてしまうともう一気に面倒になる。
 ツイートの末尾に「続く」とでも書いておけばいいのかもしれないが、「続けないといけない」といった感じに、なんだか拘束が生じるような気がして、今度はそもそもそこまでしてツイートするほどの情報かどうか考え始めてしまう。考え始めてしまうと言っても、ほとんど考えず、数秒で諦める。仮に誤解なく伝わりそうなツイートが140字以内で書けたとしても、日本語がおかしくないかとか、頭の悪そうなことを言ってないかとか、いろいろなことが気になってしまって、ツイートせずに消してしまうことも多い。
 
 
 昨日、眠れなくて、自分がいつかどこかで書いたらしい、ブログの下書きのようなものを読み返した。日本語が拙いというか、背伸びした表現というか、言葉足らずというか、あるいは、「この人に対してこんな言い方しなくてもいいのに」とか、「昔の自分はこんなに人間を見下していたのか」とか、ある種の幼さ――ところで、この「ある種の」という言葉もしばしば思考を曖昧にしておくために使われているように思えるし、今の自分の用法も例外ではない――を感じた一方で、「昔の自分はこんなことを考えていたのか」とか、「このときの考えていたことや抱いていた感情はもう忘れてしまったな」とか、とにかく「さまざまな」思いが生じた。
 
 ある程度まとまった自分の考えやら気持ちやらを、不完全ながらも文章として残しておく。そういう作業をここ数年(大学のレポートなど以外で)まったくしていなかったような気がするし、現に今、こうやってブログを久々に書いてみて、なんというか、不自由な感じがする。こういうふうに、気楽に文章を書いていたときの感覚がよくわからなくなっている。昔は5000字ぐらい、もっとスラスラ書いていた記憶があるが、今書いているこの記事はまだ2000字にも満たない。句読点の打ち方もわからない。文と文のつなげ方もわからない。どれぐらいゆるく書いていいのかもわからない。どういうふうに話題をつなげて、あるいは飛躍させていいかもわからない。とにかく、書きづらい。
 
 少しリハビリも兼ねて、何の需要があるのかもわからないが、そんなことはまったく気にせず、このブログでハッキリと言語化することを習慣づけてみたいと思う。べつに毎日書くつもりはまったくないが、とにかく何かぼんやりと思って、Twitterにも書きづらいと思ったことは、こっちに書く。というか140字以内でまとまったこと書くの無理。「寒すぎてサーモグラフィーになった」とかぐらいしか書けることないだろ。
 
 と、ここまで書いてきてなんだかちょうどよく疲れてきた。こんなに時間かけて書くつもりはなかったんだけどなあ。
 
 そういうわけで、書いてみたいことは全くないわけではないし、気の向いたときに、少しずつなにか書きます。まずは混雑した自己了解を判明にしていこうと思う。