書くとは何の謂いか

Was heißt Schreiben?

2017年について

 断片的に。
 
1.
 最近よく冷たい人になりたいと思う。ここ数年、世の中は(自分が思っていた以上に)悪意に満ち溢れているなとしばしば思わされるし、自衛の意味も兼ねて冷たくなりたいけど、べつにそういうことだけではなくて。
 たとえば自分はフリーゲームを作っていたことがあって、おそらくはそういう経験から、無償で何かすることを、(あるいはきっと無償で何かをしてもらうといったことも)取り立てて特別なこととして捉えていなかった。そこのあたりの感覚が、どうにも変わりつつある。「無償ってどうなんだろうね」という具合に。まあ、自分が作るゲームに関しては今のところ有償にできるようなものではないと思っているけれども、「或る程度のクオリティが伴ってきたら別にフリーじゃなくシェアにしてもいいのでは?」と少しだけ考えるようになった。他にもここ二年ほど、自分がもっている入試現代文の知識やらノウハウやら考えてきたことやらを教育に携わっている人に無償で提供・還元していたけど、これも「本当は有償にできるものなんじゃないか」と思ったりする。(するだけでしないと思う。)
 なぜそう思うようになったのか、いろいろな理由はあるけれど、一つには、ここ一年ほどあまりにもお金がない生活をしていたせいもあるのだろう。以前なら「そんなことでお金とらなくてもいいんじゃないかなあ」みたいに思っていたことでも、「まあ生活するの大変だからね」と思うようになった。実際2017年はEntyで某サイトの有料スクリプト素材なんかを買ってみたけど、かなり満足できるものだったし、それほど高いわけでもないので、もう少し金銭的に余裕ができたら有料のグラフィック素材やBGM素材も開拓してみようかなと思った。
 金銭的なやり取りや経済的な事情にリアリティがもてるようになった、と言うと、なんだか「今まで世間知らずすぎたのでは?」という気もしてくるけど、要するにそういうことだと思っている。
 お金を対価に何かを得る、というのは、無償で何かをしてもらう関係と比べると、かなりシンプルでわかりやすい。この関係のシンプルさは、貨幣という複雑な背景的制度に由来しているのだと思う。対して、無償で何かをする/してもらうというのは、基本的には人間と人間の信頼関係に依存している。これは貨幣と比べれば概念的にはいたってシンプルに感じられるかもしれない(あるいは少なくとも個別的事情を措けば、ただの二者間の関係としてシンプルに記述可能だろう)が、その実、現実的にはかなり複雑だし、面倒なものだろう。素朴な言い回しに頼れば、人間と人間の関係は、貨幣制度よりも脆く、不安定なものだ。ビジネスライクな関係であれば、「面倒だな」と思ったらお金のやり取りを切ってしまえばいいけれども、人間関係の場合はそうもいかない。もちろん無理やり切れなくはないが、貨幣で結ばれている関係ほど穏便に切ることはできないだろう。
 当たり前だが、世の中は人間関係で動いている領域も相当あるにせよ、ビジネスライクな関係で動いている領域も決して無視できない広さを占めているわけで、自分はまだ出たことはないけれども、いわゆる「社会」に出てしまえば、大半の関係はビジネスライクなそれに変質するのだろうと思う。たぶん、自分がここ数年感じていた、世の中に満ちている「悪意」とやらは、利害関係がたんに表出しただけにすぎないものも少なくなかったのではないか。他人のことは所詮は他人のことだし、メリットやデメリットがなければ動かないことも多い。動くときにメリットやデメリットを考えるという感覚は正直なところまったく持ち合わせていなかったのだが、そしてそればかり考えて行動するというのはいささか非情すぎる気もするが、しかしまったく考えていないというのは、いくらなんでも理性的ではなさすぎるのだろう。人は(自分が思っていた以上に)理性的で合理的に動いているし、周囲からしてみれば自分はまったく合理的に動いていないのだろうと思う。
 そういえば、「他人のことは所詮他人」という感覚もかなり弱い。人がすごく不機嫌になっていたり怒っていたり悲しんでいたりすると、そのペースに巻き込まれてしまって、頭があまり働かなくなったり、ストレスを感じたり、暗い気持ちになったりする。たぶん、そういうのは或る種の人びとにはよくあることだろうと思う。メンタルがヘラっている人と話していると、「何とかしなきゃ」という気持ちになったりするけれども、他人は他人なのだから、それは当人がどうにか処理すべき感情なのであって、自分のものではない。そう考えたほうが、自分にとってはもちろんのこと、相手にとってもストレスが最小限で済む。そういう割り切り方も、以前なら「ドライだな」と感じていたが、考えてみればとくにドライと言うほどドライではない。お互いに救われる選択だと思う。
 冷たい人になろうと思うぐらいでちょうどいいのだろう。自分はなんだかナイーヴすぎる。
 
 
2.
 人間は過去のことをとくに大事にはしていないと思う。
 しばしば言われるように、過去に対する解釈は、現在の状況に対する解釈に依存している。つまり、たとえば調子が悪いときは、現在の状況の悪さは、過去の出来事に起因していると思ったりして、過去を悪いものとして解釈してしまったりするし、逆に調子がいいときは、当時どれだけ悪いことのように感じられていた経験であったとしても、「あのときも悪くなかったな」と過去を肯定的に解釈してしまったりする。(こういう解釈の不定性はすごく馬鹿馬鹿しい。)
 と、こんなふうに思っていたけれども、むしろ大半の人間は、調子が悪いときにわざわざ過去のことを振り返ったりする余裕もないし、調子がよくなれば、過去のことなんかどうでもよくなってくるのではないか。
 小学校のころ、友人が「幼稚園のころ同じ組に誰がいたかなんて覚えていない」なんて言っていてかなり驚いたことがあった。自分もさすがに今になって幼稚園のころに同じ組に誰がいたかなんて明確には覚えていないにせよ、おそらく会って名乗られたら「ああ、君ね」と思い出せるとは思う。小学生当時は「こいつは記憶力がよくないんだな」程度にしか思っていなかったが(そして本当にそれだけだったのかもしれないが)、実のところ、小学校に上がってしまえば幼稚園のことなんかどうでもよくなるのではないか。
 幼稚園や小学校はちょっと極端かもしれない。高一のころ、同級生に「中一のときにこんなことあったよね」と言っても誰一人覚えておらず、「この場所で人がこういうふうに配置されていてこいつがこんなことを言ってそれに対してこいつがこんな表情をした」と頑張って思い出して子細に説明してみてもやはり誰一人思い出すことなく、自分がパラレルワールドからやってきた人間みたいになってしまったことがあった。(まああまりに詳しく思い出して語ろうとすると多分に想像に依拠せざるを得なくなってくるとは思うので、かえって他の人びとの想起を阻害していたかもしれないが、それはそれとして。)一応、中高一貫に通っていたので幼稚園から小学校よりも連続性があるはずだし、中高時代は幼稚園や小学校のときよりも意識がハッキリしていて記憶していることも多いだろうと思っていたけれども、三年もすればちょっとしたことなど忘れてしまうのかなと、そのときは感じた。
 なんだかやや婉曲的な記憶力自慢めいてきたが、正直、自分の記憶力にはあまり自信はない。(それでもたとえば過去についての証言で自分の記憶と他人の記憶とが食い違ったらまず他人を疑う習慣はついているが。)観たアニメや読んだ本や漫画の内容なんかもだいたいよく忘れているし、そもそも直近の出来事でもしっかり思い出せないことは別に少なくない。これらはたんに、自分が或る種の過去の経験を、頻繁に想起しているだけなのではないかと最近思いつつある。
 昔の話をすると「思い入れがあるんだね」みたいな受け取られ方をすることがある。そのたびに「別にそういうわけではないけど」と断りを入れてきたけれども、実のところ、人より思い入れはあるのかもしれない。まあ中高時代に対して「思い入れがある」で片づけられてしまうのにあまりいい気がしないのでそういう断りを入れてしまうのもあるけど(めんどくさい人間だと思う)。嫌だったこともかなり長いあいだ覚えているので、「根に持つタイプだ」なんて思われたりすることがあって、それも違うと自分では思っていたけど、実際はたぶんかなり根に持つタイプなのだろう。唐突に昔のことを思い出して、ついさっきあった出来事であるかのように怒りが溢れてくるというのは、なんら珍しいことではない。
 もう少し、過去のことなんかどうでもいいと思ってみてもいいのかもしれない。人生を明るくするためにも。
 
 
3.
 実家に帰ってきたらテレビで自分の苦手な雰囲気の邦画が流れていた。出演者の名前から検索をかけてみたら『彼らが本気で編むときは、』という映画らしい。途中からちゃんと観たわけでもないので良い作品かどうかは判断しかねるが、そういう評価とは別に、終始一貫して自分の苦手な雰囲気が流れていたであろうことはほぼ間違いないと思う。
 小一のころ(2000年の年末)、『鉄道員(ぽっぽや)』の映画がテレビで放送されていたときに、初めてそういう雰囲気を苦手と感じるようになったと記憶している。ちょうどそのころは弟が産まれたばかりで、母親は産後入院しており、母方の祖母や父方の祖母が入れ違いで家に訪れて、家事を手伝ったり弟の顔を見たりしていた。二人とも家に訪れるや否や「『ぽっぽや』が観たいねえ」みたいなことを言ったのだろう。少なくとも三回ぐらいは(録画していた)『ぽっぽや』がテレビで流れていたと思う。上述した作品と同じく、別にちゃんと観ていたわけではないのでストーリーは今もよく把握していないし、演出もハッキリとは覚えていないが、背景で流れる環境音、人間たちの微妙な距離感、人間たちの微妙な表情の変化、人間たちの実存に密着した会話、そしてその会話の生み出す微妙な空気感、そういった種々の要素がとにかく苦手だと感じた。言ってみれば、人間が(ただ)生きている有様を描いたタイプの物語を受容する感性を自分はまったくもっていないのだと思う。無論のこと、小一のころだったわけだし、基本的にそんな年齢でこの種の物語を十分に受容できるわけがないのだが、しかしそれでも原体験として強く根づいてしまっていて、今でもこの手のタイプの映画を観たいとはあまり思えなくなってしまっている。実家からけっこう近い場所に映画館があるので、(おそらく「映画好き」というほどでないわりには)よく映画を観に行ったりするのだけれど、だいたいいつも「派手な爆発が起きそうか」「アクションシーンはどれぐらいありそうか」ぐらいの規準でしか映画を選べずにいる。(そして脚本的にはわりとハズレを引いていることが多いと思う。)
 ところで余談だが、2017年に観た映画のうち『アトミック・ブロンド』は、かなりアクションシーンの見せ方がわかっている人の作品だと思った(まあ監督の経歴を調べれば「こだわりがあるのも当然か」という気はする)。ストーリーテリングについても色々思うところがあるけれども、とにかくアクションシーンだけで十分見る価値があると思う。
 閑話休題。別に映画に限らず、たとえば文学、とくに純文学と呼ばれるようなジャンルのフィクション作品も、自分はあまり読むのが得意じゃない。だいたいそういうのは人間の人生に対する無関心さに由来しているようだ。実際のところ、この年になるまで、人と仲良くなろうとすることと、人(の人生)に興味をもつことをあまり区別していなかった。相手の人生の興味をもたなくても楽しくお喋りをしていればその人間と仲良くすることはできるし、その人間と仲良くしなくてもその人間の人生に興味をもつことは十分できる。この二つが独立であることに気づくと、人間の人生に対していくらか自覚的に興味関心をもてるようになるわけだが、そうすると確かにフィクション作品の受容も変わってくる。
 たとえば2017年に観たアニメに『プリンセス・プリンシパル』があって、いつもなら自分は物語作品を鑑賞する際にそのストーリーテリングにしか(ほぼ)目が向かないのだけれども、この作品を「キャラクターがそれぞれ背景と感情と人格をもって自律的に動いているのだ」と思って観てみると、各々の細かい動作や表情、言動といった部分にかなり多くの情報が託されていることに気づく。もちろん『プリンセス・プリンシパル』がそういう描写に力を入れているだけと言うこともできるが、いずれにせよ普段なら流していたであろう部分を相当に多く拾い上げることができたのは、自分にとってかなり大きな意味をもつ物語体験となった。
 逆に、今まで自分はフリゲを作ったり、あるいは発表をしていなくても何か創作をしたりしていたわけだが、その手の作品にはことごとくキャラクターの心理的描写が(大げさに言えば)欠落していたのだろうと思う。実際、このキャラクターはこういうバックグラウンドを抱えていて、こういう感じで世界が見えていて、別のキャラクターがこういうことを言えばこういうことを思うのだ、と考えて何かを創作した経験が一度もない。自分の書くセリフが異常に薄っぺらくて悩んでいたこともあったが、たぶんそういうことだったのだろう。
 人間の人生に対して関心をもつようになれば、今まで楽しめなかったことも楽しめるようになるのだと思う。だからこれからは人間の人生に関心をもつようにしたい。その分、悲しみを拾ってしまうことが多くなるのかもしれないけれど。
 
 
4.
 たとえば『ゼノギアス』みたいな作品に対して「小説でいいじゃん」みたいなことを言う人が一定数いるが、そういう主張に対して共感できたことが一度もない。
 2017年は「自分はなぜ創作の媒体としてゲームを選んでいるのか」と考えることが多かった。ゲームで(いわゆる「自由度」や「ゲーム性」を犠牲にして)ストーリーに重きを置いた作品を出すと、決まって「これはゲームである必要がない」「小説でいい」なんて言い出す人間が出てくる。一番気に入らないのは、そういう人たちが、どういうわけか「このストーリーに最適な表現はゲームではなく小説だ」という意味ではなく、小説という表現媒体を「ゲームになりきれなかったストーリーを放り込む領域」として考えていそうなあたりだ。もちろん「それは悪意をもって解釈しすぎだ」という声もあるかもしれない。しかしそうだとすると、彼ら彼女らが高い確率で「漫画でいい」「アニメでいい」とは言わない理由はいったい何なのだろうか。すべてがそうではないとしても、多くは「ストーリーで勝負したかったらゲーム制作なんかやめて小説でも書いてろよ」ぐらいの意味しかないのではないか。
 もちろん制作コストの問題もある。つまり、漫画やアニメというのは、それはそれで制作コストや技術が必要とされる。だから、「このストーリーを表現したいのであれば、わざわざ漫画やアニメ以上に制作コストが必要とされるゲームを選ぶのではなく、もっとコストが軽く済む小説などを選んだほうがよかったのではないか」といった具合に。とくにフリーゲーム(たとえば『Seraphic Blue』)に対してこういう意見が寄せられるのであれば、それはまあ理解できる話だ。ただこの場合も、やはりストーリーの最適な表現手段として小説を提案しているわけではなさそうだが、これはこれで否定できない事実だと思っているので、前述した立場のように怒りは湧かない。でも、「ちょっと楽観的すぎるのではないか」と思ってしまう。
 楽観的というのは、つまり、或る表現媒体から別の表現媒体への「翻訳」が安易に可能だと考えていそうなあたりだ。たとえば漫画のアニメ化でも十分デリケートな問題になりうるのに、ゲームに対して安易に「小説でいい」と言えてしまうのは少し理解できない。当然「最初から小説として表現すればいい」という立場だろうから、すでに完成したストーリーを「翻訳」するのとはいくらか事情が違ってくるが、しかし自分としては、「あくまでゲームとして表現したいのであって、小説でも漫画でもアニメでもない」と言いたい。(言いたいし、他の作り手だっておそらくそう考えているであろうことは容易に想像がつく。「最初から小説として表現すればいい」というのは、そういった各々の制作動機に対してあまりにも無関心で冷たい立場として感じられる。)
 自分がなぜゲームを選んでいるのか。正直なところ、今まで深く考えたことはなかったかもしれない。一つ言えるのは、その物語世界を主人公として実際に介入できるところに、ゲームならではの物語表現があると昔から思っていることだ。それが最も露骨にストーリーラインに絡んでくるのは、いわゆる「ルート分岐」や「マルチエンディング」だろう(自分は正直好きではないが)。別にストーリーを分岐させなくても、主人公(=プレイヤー)の介入を物語表現として活かすことは十分できる。最近見かける「QTE」のような要素も、その試みの一つとして理解できるだろうけれど、別にそういうものである必要もない。やや極端に感じられるかもしれないが、自分としては、たんに作中世界の表現として用意されたマップを、主人公として実際に歩くことができるという、その程度のことだけで、十分ゲーム特有の物語表現をしていると思っている。(もちろんそれらが物語表現として「成功」と呼べるほどのものになっているかどうかはまた別の話であるし、高評価に値するマップを用意するのは決して易しくないわけだが。)
 だから実際、自分は昔からマップデザインに対してそれなりのこだわりをもっているし、今後ゲームを作るときに減算的発想にもとづいて、たとえばRPG的な要素の不採用を決めることがあるとしても、マップを完全に削るということはおそらくないだろう。その点、フリゲで時折見かける「ノンフィールドRPG」というジャンルは、「ゲーム性」に特化するならいたって真っ当な選択であると感じている。
 もう一つ、ゲームを表現手段として選ぶ理由には、ストーリーにおける戦闘の描写を(或る意味では)省略したいという願望が少しあると思っている。べつにバトル描写が嫌いなわけではなく、むしろ、たとえば『ドラゴンボール』は大好きだし、自分が漫画やアニメなどの制作に携わらせてもらうことがあれば、そういう戦闘シーンはかなりこだわりをもって作りたいと思っている。(唐突に思い出したから言うが、アニメ『大魔法峠』の格闘シーンは素晴らしい。とくにエリィ戦。マジで必見。)
 けれども、自分がゲーム(のストーリー)を作ろうと考えているときは、率直に言ってバトルの過程なんかはどうでもいいのである。ストーリーで必要なのは勝敗の結果だけだし、しかもそれは基本的には勝利だけだ。新たな敵が現れて、そいつのもつ能力に苦戦して一度は敗れて、修行したり自己反省したりと努力を積んだ結果として敵を撃破する、なんて過程はとくに描写したくない。そこまで尺を割かずに、戦闘中に機転だけで突破するタイプの戦闘描写も考えられるが、別にそういうふうにしたいわけでもない。そのストーリーによって表現したいものが、まったくバトルにないときに、しかしストーリーでバトルが必要なときに、RPGという表現媒体を選ぶというのは、とくに間違った選択ではないと考えている。バトル描写を、いわばプレイヤーに任せてしまうのである。
 もちろんただ投げただけでは、HPの減算と加算という数値のフラットなやり取りになってしまうので、技のエフェクトやBGMにこだわったり、特殊なシチュエーション下における戦闘に設定したりといったように、バトルデザインを施す必要はある。制作コストみたいな観点から言ってしまえば、漫画やアニメとしてしっかり戦闘描写を用意する以上のコストがかかることも決して少なくないし、バランス調整の手間なんかを考えればむしろコストはかかることのほうが多いだろうけれども、これはあくまで表現の力点をどこに置くかという問題である。
 この点、『Seraphic Blue』はまさにそういうストーリー表現になっていると理解している。ゲームとしてはバトルに制作者の強いこだわりが感じられるものの、そのバトル過程はストーリーにまったくと言っていいほど絡んでこない。特徴的なFE(フィールド・エレメント)のシステムも、ストーリーには一切必要のない要素であると言いうる。(ただもちろん、バトル過程がストーリーにまったく絡んでこないというのは、ゲームならではの物語表現を強く志向するなら欠点となりうる。個人的には「バトルは純粋にプレイヤーの腕が試される場であってほしい」と考えているので、無理やり絡めた「イベント戦闘」になってしまうぐらいなら、無関係であってほしいと思うわけだが。)
 あとは消極的な理由だけれども、小説のように読者の想像力に強く依存した表現手段を用いることができず、漫画やアニメを一人で制作する手立てもないので、フリーゲームを作りたいと思っているという部分も、なくはない。文字だけで戦闘描写ができる自信がないし、とくに書きたいとも思っていない。(何なら読みたいとも思っていない。)BGMや効果音を設定したり、画面内にこっそり(二周目で気づきそうな)伏線を張っておきたかったりする。そういうのは、ゲーム以外にはアニメが向いていると思う。しかし一人でアニメを作るのはいくらなんでも難しすぎるだろう。新海誠じゃないんだから。
 こういうことを考えるようになったのは、この一年、とあるフリゲ制作者のTwitterアカウントを見ていたのが大きい。往々にして、優れた「ゲーム性」の作品を作ることに成功した制作者はどうにも(ストーリー重視のRPGを暗に貶しながら)制作ノウハウをTwitterで語ったりするものだが、その人も例外ではなかった。とくに、「ストーリーが一切ないのに演出やBGMや勢いだけで自分は感動できるけど、ストーリーでしか感動できない人もいるからね」という旨のツイートは相当カチンときた。ツイート自体の意味もあまりよくわからないのだが(ストーリーとは独立に演出や勢いに感動するというのはありえるのだろうか、BGMは普通にあると思う)、「ストーリーでしか」という言い方はいったい何なのか。ツイートから本音が見え透いているように思う。
 この人が作るゲームは、二作ほどプレイしたことがあるけれども、フリゲの中でもかなり優れているほうに入ると感じている。自分の作品よりも(ほとんどあらゆる意味で)面白いのは認めるし、こういう作品は自分には作れないなとつくづく思う。けれども、この人もたとえばゼノギアス』のような作品は作れないだろう(「作らない」のではなく)。
 次に一からフリゲを作ってネットに出せるのがいつになるかはわからないが、作る機会に恵まれれば、今度はゲームならではの物語表現を徹底的に志向しようと決めている。最近のフリーゲームでもストーリーに重きを置いた作品がないわけではないけれども、『Seraphic Blue』のようなかたちで重視している作品は、まあ皆無と言って差し支えない。唯一『ワールドピース&ピース』は「フォロワー」的な作品として成功に入る部類ではあったと言いうるだろうが、そして自分はまだ途中までしかプレイしていないけれども、今のところあまり好みではないし、台詞回しにどうにも違和感を覚える。「「パラダイムシフト」ってそういう使い方しなくね?」とか。(まあ進めていくうちにアレは広い意味では作中独特のタームであったと理解できるようにも思えたけど。) 『Seraphic Blue』は難解な言い回しを好む芸風にしては意外と概念語コレクターの高校生みたいな言葉遣いに陥っていなかったのではないかと今になって思う。ぶっちゃけ感覚がめちゃくちゃ麻痺しているので自信はないけれども、読んでられなくなるような要素って、無印版冒頭のフリッツの語りと、度の過ぎた漢字変換ぐらいでは? あとはジークベルトさん。
 ゲームの特性を活かした物語表現を志向するとは言っても、やっぱり物語や舞台設定の表現手段としてゲームを選ぶのは効率が悪すぎる。でも前にも言ったように、「ゲームは所詮ゲームなんだね」みたいな偏見を払拭したいわけで、つまり「ただの暇潰しの遊びと思われているかもしれないけど、そういうゲームばかりじゃない」と言いたい。
 もっとも、そう主張したいだけであれば、何も『Seraphic Blue』や『ゼノギアス』みたいな作品を作る必要は必ずしもなくて、なんなら先に挙げたフリゲ制作者の作品もストーリーに対するこだわりは窺えるし、それで十分反論材料となりうるのだろうけれど、自分はもっと、「古典的な文学作品にも匹敵するようなものが、ゲームでもありうるのだ」と言いたい。そしてそういう作品が近いうちに登場するには、まだあまりにも土壌が成熟していないと感じている。自分が何かを世に出すことによって、少しでも地面を耕すことができれば、と思う。
 
 
5.
 自分の恋愛観は素朴すぎるんじゃないか。
 高校のころは、結婚願望も子どもをもちたいという願望もなかった。自分は誰かの親になれるような人間ではないし、別に一生独りでもいいかなと思っていた。思っていたが、今考えてみれば小六から中一にかけてすごく好きだった女の子がいて、恋愛に対するそれなりに強い憧れは昔からあった、と思う。結婚願望が無みたいなのはフェイク野郎だったのかもしれない。
 みたいに、恋愛願望があったということは結婚願望もあったのだろうと一瞬考えてしまう程度には、恋愛と結婚というのは自分にとってかなり同じものだ。その先に結婚が存在しない恋愛とは、いったい何なのか。ただの不誠実な遊びではないか。そんなふうにも思うが、しかし、真剣に誠実に交際をして、そして付き合って相性が悪かったと判明したのではなくてむしろ仲良くできて、さらには家庭の事情で交際相手とは別に結婚しなければいけない相手が出てきたとか経済的な事情で結婚が不可能であるように思われてきたとかそういうわけでもなく、端的に「恋愛の相手としてはよかったけれども、結婚の相手としては選べないから別れる」というのは、普通にありうる話だ。まあちょっと極端かもしれないが、十分想定可能だろう。
 恋愛と結婚の不一致というのは、以前と比べて理解はできるようになったと思うけれども、今でも共感はできない。以前なら一致しない可能性すら考えなかった。或る種の女性と会話していて初めて気づいたことだ。
 そういう或る種の女性の恋愛観や結婚観は、なんだか悲観的にさえ感じられるのだけれども、実際は自分のほうが楽観的で現実が見えていないだけなんだろうと思うし、自分は子どもっぽいな、という気がしてくる。
 記念日は祝えるなら祝ったほうが楽しいと思う。人間と人間が付き合っただけの日なんて、人間が誕生した日と比べれば大した日ではないかもしれないけど。
 自分の体内にあるとき別の生命が存在するようになる、というのは確かに不気味なことだ。男だからか、あまりリアリティをもっては感じられないけれども、そう思う。
 「食欲」「睡眠欲」「性欲」と三つの欲求があたかも対等な資格をもっているかのように並列されるのは変な感じがする。食欲と睡眠欲は満たさなければ生存に関わるとかそういうことではなくて、三つのうち性欲だけは人間に対して向けられる欲求であるということ。これはちょっと異常で、気持ちの悪いことのようにも感じられる。しかし普段はそんなこと気にもならない。ふと欲求が湧いたときに適当に処理するだけで、考えようと思わなければとくに考える機会もないから。
 恋人同士だった関係が結婚によって変質してしまうこと。そんなことがありうると或る時期までは考えたことすらなかった。自分の父親と母親は他の家庭と比べるとかなり仲が良い部類に入るらしいこともその一因だろう。別にセックスレスじゃないとかそういうわけではなく(というかたぶんレスだろうけど)、まず夫婦喧嘩らしきものを見たことがないし、冷え切っている様子もない。(自分からしてみれば)かなりアレな経緯で結婚したことは知っているけれども、そういうタイプの結婚がここまでうまくいくものなのかと思う。むしろそういうタイプの結婚だからこそ、なのかもしれないが。
 人間が性欲をもつこと、人間が恋愛をすること、人間が生殖をすること、人間が家庭を築くこと、人間が両親を選べないこと、人間が子どもを選べないこと。どんなことも、自分は大して考えていないから楽観的なのだろうと思う。まあ、これから自分なりに考え抜いたうえで、なお結論が変わらないということは普通にあるだろうし、実際、そこまで悲観的に考えたくはない。
 自分の恋愛・結婚願望というのは、孤独に対する恐怖が一つにはある。たとえば死後しばらく経過した腐乱死体として発見されたくない。べつに家庭をもってもさまざまな経緯で最終的に一人になってそういう死を迎えることはあるだろうが、でも結婚によってその可能性から遠ざかることはできると思う。あるいは街中で見かけるホームレスを他人事だと思えたことが一度もない。自分も場合によってはああなるのだろうと、いつも思っている。これも家庭をもったぐらいでは完全に回避できるようなものではないにせよ、遠くなりはするだろう。『ウシジマくん』みたいな漫画も、「明日は我が身」と本当に感じられるので、とにかく読んでいて不安になる。(ただアレをまったく不安にならずに読むことができる人も、そうそういないだろうと思うが。)ああいう恐怖から逃れたくて、比較的安全そうなレールの上を歩いていたいという気持ちはわりとある。
 そんなレベルじゃなくても、単純に自分のそばにいてくれる人がいるのといないのとでは、人間の振る舞いや自己肯定感が大きく変わってくる。たとえば「こいつに嫌われても自分にはあの人がいるし」みたいなのとか。相手を信頼しすぎている気もするが、正直男女関係なくそれぐらい信頼の置ける相手じゃなければ普通恋人には選ばないだろうと思っている。アレな言い方になってくるが、絶対的に信頼できる人しか恋人にしたくないし結婚相手にしたくない。それなりに信頼して合っている男女が付き合っていないというのはまったく不合理なことのようにすら思える。(思えるが、当人たちの意思というものが当然あるわけで、それは尊重されるべきだ。)とにかく、人生においてそういう人を探して選ぶんだから、恋愛というのはかなり深刻で重要なことではないか。
 
 しかし、恋愛ごときで人生を左右されるというのはなんだか馬鹿馬鹿しい気がする。『若きウェルテルの悩み』なんかそうだろう。失恋して自殺するというのは、すごく馬鹿馬鹿しい気がする。馬鹿げているが、実際のところ自分はその種のストレスで精神的に追い詰められた経験が決して少なくない。というか、何なら毎回そうだ。死と女の決断はいつも突然やってくる。あらゆる瞬間に女の決断が迫っていると考えるべきだ。女の決断に惑わされていろいろアレしましたとか言って女を恨むのは違うだろう。恨むなら、その程度のことも見据えられなかった自分の想像力だ。
 あるいは、女の決断に先駆けて自分が決断してもよかったのだろう。そんなこと、怖くて考えたことすらないが。
 
 
 
 いろいろなことを書いていたらかなり長くなってしまった。13000字を超えているらしいが、さすがに嘘なのでは。まあ何でもいいや。これは卒論です。無職卒業論文。 
 2018年は、もう少し生産的なことがたくさんありますように。
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『プリンセス・プリンシパル』について

 タイトル通り、顔と頭のいい女が暗躍するアニメについて。視聴完了してからわりと時間が経ってしまったけど、忘れないうちに感想とかメモしておきます。
 (以下、作品紹介を書いたつもりはないけれども、一応なるべくネタバレにならないようには配慮しました。)
 
 作品全体としては、(そんなに今までアニメを多く観たわけではないが、)自分の中では五本指か十本指には入るぐらいの出来だと思った。個人的には攻殻オマージュがところどころあったのがポイント高い。
 まあそもそもスパイもの+ヴィクトリア朝スチームパンク(+百合)という時点で完全に好みの要素しかないのだけど、『プリンセス・プリンシパル』はそれ以上にストーリーテリングの秀逸さが際立っていた。
 
 たとえばこの手の物語は、視聴者に舞台設定を理解してもらったり、キャラを覚えてもらったりするために、序盤でよく「個別の事件を解決していく」みたいな物語進行をとるように思う。そして、そういう展開は得てして退屈になりがちで、観る前にファンから「n話まで耐えろ(nは自然数、だいたい3≦n≦13)」なんて言われたりする。
 けれども、この作品は話数と時系列が必ずしも一致していないおかげで、個別的な事件解決による物語進行であっても(むしろほとんどそれしかないと言ってもいいのだが)、視聴者を退屈に感じさせない、起伏ある展開を描くことができているように思った。
 具体的には、たとえば過去話に入ろうと思ったら、普通は過去回想への誘導がシナリオ上必要となるが、本作では話数と時系列の不一致によって、そもそも誘導する必要がなくなっている。これによって、それぞれのキャラクターがもつバックグラウンドについて、大量に、そして細やかに張り巡らされた伏線の回収が、かなりスムーズに感じられたのではないかと思う。
 ここまで時系列がバラバラにアレンジされた物語進行は、前例にあまり覚えがないのだけど、もし他に知っている人がいたら教えてほしい。
 
 時系列がバラバラなのは(おそらく多くの人が指摘しているように)周回視聴を促す意味でも巧いとは思ったが、演出面でもかなりの効果をもたらしていると感じた。
 作中半ばごろ、ある凄まじい「鬱展開」が描かれるのだが、その出来事に対して彼女たちが何を見て何を思ったかは、劇中では一切語られない。通常の単線的な時系列進行でストーリーが展開するなら、ここまでの省略は少なからず違和感を生じさせるだろうが、本作は直後に時系列を遡行したこともあって、違和感をまったくと言っていいほど抱かせない。それどころか、むしろ何も描かれないことによって、一連の事件は触れてはいけない出来事であったかのように描かれる。(そして彼女たちもまた、時系列の大胆なカットによって、その出来事をタブーとして認識しているかのように振る舞うことになる。)
 筋書き自体としてはさほど珍しくもない展開だったかもしれないが、このプロット上の空白が、視聴者にかつてないほどの強烈な後味の悪さを与えているのだろうと感じた。(自分はあの回はつらくて一周しかできなかった。)
 
 終わり方は、前評判よりも駆け足で終わった印象はあまりなかった。まあ第1話の時点で物語の展開速度がかなり速めだと感じたので、それを考えるとこれぐらいの終わり方になるかなという気はする。
 
 とにもかくにも、『プリンセス・プリンシパル』は主にストーリーテリングの面でけっこう思うところがあった。最近久々にシナリオ方面の勉強をしたいと思っている。思っているけど、どうやって勉強するのがいいのかしらね。ベタにターニングポイントとかメモとっていくやつをやるのがいいのか。
 
 ちなみに推しキャラはとくに見つからなかった。(嫌いなキャラも特にいないがアンジェはどことなく好きになれない。)
 推し候補だったキャラについて言えば、視聴前に期待していた7とかいうみゆきちキャラはひたすら影が薄かったし(『賭ケグルイ』の会長を見習え)、プリンセスは作家の都合でオールラウンダーに動かされている感じが強くて肝心の本人が埋没していたように思えてならなかったし(もちろんまったく描写されていなかったと言うつもりはない)、アンジェはめんどくさいガチレズだし(7話のカバーはめっちゃ好き)、20スパイことドロシーさんは……強く生きてほしい。
 
 あとゼルダさんはそれなりに気に入ってます。少佐っぽく消えていったのはポイント高い。二期か何かではきっと素晴らしいご活躍を見せてくれることでしょう。

共有しづらいことについて

 研究者になりたいという気持ちが以前よりも薄れてしまったと思う。
 
 上京して数か月経過して、新しく人に会うたびに「勉強するために上京してきて……」みたいな自己紹介をしているが、嘘をついている気持ちになる。全然勉強していない。一次文献や二次文献どころか、入門書の類すら読んでいない。まあ「まったく読んでいない」と言い切ってしまうとさすがに嘘にはなるものの、義務感に駆られてか、あるいはこれを読んだら意欲が回復するのではないかと思って手に取るぐらいで、だいたい数ページ読んでつらくなって閉じる。頭が働かないし、頭にも入らない。「専門は何ですか?」と訊かれても、本当に専門と言えるのかどうかもわからないハイデッガーの名前を出して、場合によっては一行も読んだことがないダメットやセラーズの名前を付け加えて「分析系も関心があって読みたいんですけど難しくて……」みたいな当たり障りのないことを言うだけ。関心があるならちょっとは読んで何か言えるようになれよと自分でも思う。
 せめて語学の勉強だけでもやっていればいいのではないかと思って何度か挑戦しているが、こちらはこちらで精神が荒んでくる。もともと好きじゃないからだろうか。鬱病のときは語学をやるといいなんて聞くけど、つらいです。読みたいものが全然ないのも良くない気がする。ちなみにまた語学が原因で院試に落ちる夢を見た。いい加減にしろ。
 次の院試のために卒論を書き直そうとしても、自分の文章がロクに読めない。議論の弱さにも判明度の低さにも新規性のなさにも絶望的な気持ちになる。今「卒論」って単語を入力しただけで精神が終わってきた。何も触れたくない。
 
 上京してなにかいいことがあったのかどうか、正直全然わからない。何もいいことがなかったと言いたくなるほどに認知が歪んでいる。おそらく本当にいいことがなかったわけではないと思う。拾えないだけで。 
 どうせこういう感じになるなら留年して院浪人という選択をしたほうがよかったんじゃないだろうか。図書館も使えないし。失ったものがいくらなんでも多すぎる。
 
 夏は昔を思い出すこともあって希死念慮が加速しやすくて、ウッカリするとウッカリしてしまいそうだけど、上京してこのタイミングでウッカリするのはあらゆる意味でダメな気がするし、できない。その代わりときどき衝動的に、人間関係のリセットをしたくなってTwitterのフォロー/フォロワーを全部解除してやめたくなることもあるけど、それもできないと思う。何もできないのでTwitterを見る頻度だけが減っている。
 
 生産性のない話が際限なく続きそうなので、このへんにしておく。精神が終わった状態のときに書かれた文章はあまり読み返したくない。というかインターネットにエビデンスとしてアーカイヴされてほしくないので、可能なかぎりブログに書きたくない。
 
 研究者になりたい気持ちが薄れてしまったとは言ったけれど、研究者にならないとしたらどうするのか。ここ四、五年の自分を見ている人からすると「あいつが研究者にならないとかあるの??」という感じがするかもしれないけど、あります。
 
 上京してから個別指導のバイトを始めて、夏休みで最近ようやく授業が入るようになって、小学生のころ全然できなかった算数を教えたりしているのだけど、意外と教えられてしまうし、けっこう楽しい。バイトに行く前、外出もしたくないほど精神が終わっていることは珍しくないのだけど、頑張って外出してバイト先に向かっているうちにすごい勢いで機嫌がよくなるので、すごい。すごいが早く現代文を教えさせろ。ほぼすべての生徒に「現代文の偏差値は二億あるので東大現代文ぐらいなら今すぐ解説できる」って宣伝してる。だから数学の質問をやめろ。
 というわけで、教えることはそれなりに好きだと思うので、たとえば予備校講師になることも考えなくはないが、ずっとやりたいタイプの仕事ではない気がする。現代文は明確な範囲が設けられている科目ではないし、比較的自由に授業ができる気がするけど、他の現代文講師のことを考えると絶望的な気持ちになる。全員が全員まともに字が読めないと言うつもりはないが(とはいっても大手予備校の模範解答を比較するとそんな気持ちにもなるのだが)、講師のあいだで科目に対する考え方があまり共有されていなくて、しかもそれぞれが「自分が一番現代文という科目を理解している!」みたいな感じでやっていってるので、対話可能性が低い。
 あとはまあ、もう何年も前だし、言った本人も本人なので気にする必要はないのだろうけど、「ばじるちゃんの将来良くて予備校講師とかだと思う」みたいなこと言われたのが引っかかっててそっちの方面に乗り気ではないというのは否定できない。(実際のところ教育業という意味では大学教員になりたい気持ちはわりとあるが、研究にあまり興味がないんじゃないかと思い始めているし、そもそもできる気もあまりしない。)
 
 上京して間もない時期に精神が終わっていたころ、さまざまな心情を紛らわすためにフリゲをプレイしたり、ツクールをいじっていたりした。精神状態を安定させるという意味では一番効果があったが、あまりにも他のことに気が回らなくなるのでちょっと困る。寝食はふつうに忘れるし、性欲も消滅する。性欲が消滅するのはデカい。本気でやり始めると何もかもがダメになりそうな気がするので本気でやらないことにしている(が、もう十分ダメになりつつある気がする)。卒論を書いていた時期は夢の中でも存在者の存在について考えていたけど、ゲーム制作は夢は見ずにただ起きていることになる。
 あと、哲学を四年ぐらい大学でそれなりに真面目に勉強して頭よくなったのか、制作の効率が上がった気がする。以前よりもアイディアやネタを考えやすくなっているし(思いつきやすくなったというよりは「ここがこうだからこうしたほうがいい」というふうに考えやすくなった)、デバッグもやりやすくなった。なんかよくわからない現象が起きても、昔より原因を見つけるスピードが格段に上がったと思う。Ruby、いまだに付け焼刃程度の知識しかもってないけど、もう一度勉強し直したらなんかいい感じになるのではないか。
 
 研究職になりたいと思うようになる前はずっとゲームクリエイターになりたいと思ってきたわけで、研究職を考えたのも今思うと消極的な理由が大きくて、そう考えるとゲームクリエイターとかになったほうが人生の幸福度は上がりそうな気がする。が、あっちはあっちで業界のことを考えると絶望的な気持ちになる。七年ぐらい前は往年のスクウェア・エニックスが出してきたような重厚長大なRPGとか、そういうのは時勢に合わないものとしてせいぜい敬遠されていたぐらいだったと思うけど、いつのまにかもうコンシューマーの時代が終わりかけている。「忙しいなかわざわざ時間を捻出せずともプレイできるソシャゲ最高!」みたいな。ソシャゲを毛嫌いしているわけではないけど、触れてみると自分が作りたいものとは違うなと思う。インディーズを盛り上げる方向性でやっていけばいいのかな。 
 「ゲーム(とくにRPG)は以前のように大作志向で続けていこうとしても制作費や制作期間が膨れ上がるだけで衰退の一途を辿る一方になってしまうと思うので、もっと多様性を許容していくべき」みたいなことをたぶん七年ぐらい、事ある毎に言っていたけど、最近は少し考えが変わってきた。いや、べつに「多様性を大事にしようぜ」みたいな考えから変わっているわけではないか。(ある種の)ゲームが、「これは第一義的にはゲームである」という立脚点を忘れて、映画的なものを目指そうとして大作志向になりがちな状況を、まったく肯定できなかったわけだけど、しかし完全に切り捨ててしまうのもどこか素朴というか、あまりゲームをよく知らない人たちからの「ゲームは所詮ゲームなんだね」みたいな印象を助長してしまうと思う。業界全体としては、まあそんなもの放置していればいいかもしれないけど、個人的には、そういう偏見をぶっ壊したいと思ったのが、昔ゲームを作りたいと思った動機の一つだったのだ。よく思い返してみるとそうだ。ぶっちゃけ完全に忘れていた。
 
 これについては、また時間を見つけてブログとかに書いておきたいなと思ったりはするけど、そんな時間あるのかな。書くならまずは(自分にもうほとんど呪いに近い影響を与え続けている)「SeraphicBlue」について考えをまとめておくことから始めたい。なんで一個人の作ったフリーゲームがそんなに10年近くも不動の地位を占めるのかと自分でも思う。そろそろもっととんでもない衝撃を与えてくれる作品が出てきてほしい。衝撃という意味なら去年の「シン・ゴジラ」は正直それに匹敵するものはあったけど。やはり自分の中でフィルターができてしまって、もう同じ作者の「SadmireBlue」しか期待には応えてくれなくなってしまったのだろうか。出てほしかったし、たぶん自分に大きな衝撃を与えてくれる作品にはなったと思うけど、ドハマリするほど好きな作品になったかどうかは微妙な感じがする。まあ事実上の開発中止となった今、アレはアレで決して到達できない理念的な何かとして、やはり呪いに近い影響を自分に与え続けている(し、今後も与えると思う)ので、そのうち思うところをまとめたい。
 
 そういえば精神が停滞していたあいだプレイしていたフリゲのレビューとか書きたいな。最近はプレイしていると焦りとかさまざまな感情が生じてくるのでもう新規に何かプレイすることはできない気がするけど。とりあえず「妖刀伝」は面白かったです。
 
 
 意外と字数が多くならなかった。ゲーム、話に深入りすることを避けすぎたかな。むしろ深入りしすぎたか。前半と後半で書いているときのテンションの落差がめっちゃ激しかった。
 研究職になりたいと思ったそもそもの動機とかはあえて書いてません。書くべきだったかもしれない。いつも話すことにわりと抵抗があるのだけれど、この際書いたほうが良かったかな。
 
 ちなみに、哲学研究者になるのをやめたとしても、哲学をやめるということはたぶんない気がする。結局、院試から逃げたいだけなのかしらね。
 

神経質さ、あるいはhighly-controlledなテクストについて

 自分は文章が下手だと思う。ときどき「文章うまいね」と言ってくれる人はいるし、褒められて「そうか文章がうまいのかー ははは」とちょっとだけ思ったりすることはあるけど、基本的に自分の文章がいいとはあまり思っていない。もう5年ぐらい前に、「文章うまいし本出してくれたら買いたい」なんて言ってもらえたこともあったけど、(そしてどの程度本心で言ってくれたのかはわからないけど、)お金を出してまで自分の文章を読みたい人は、まあいないと思う。
 
 文章が下手になったのだろうか。とりあえず話をこのブログに限れば、まず文体が気に入らない。読んでると、だいたい文末でなんだか調子が狂ってしまう。書いてるときも、いつも文を無理に中断させているか、無理に引き伸ばしているような気持ちになる。ここで文が終わると思ったら続いたりするし、まだ文が続くと思ったら終わったりする。気に入らないことはわかるのだから、直せる気もするが、なぜか直せない。どこで区切ろうと思ってもしっくりこない。
 
 文体以外には、記号の使い方も気に入らない。この前人間に、鉤括弧の使い方が気に食わないと言われたけど、実際たとえば、卒論やレポートであれば〈山括弧〉を用いていたであろう箇所も、傍点を振っていたであろう箇所も、すべて鉤括弧にしているので、書いているほうとしても、かなり落ち着かない。まあブログで山括弧とか使うのもどうかと思うけど、傍点は振りたい。傍点大好きなので。
 
 心中表現だし丸括弧かなあ、という部分も鉤括弧にしている。何なら今のように心中表現として扱っても良さそうな箇所でも、鉤括弧を使ってないことだってある。丸括弧はもっぱら(こんな感じの)補足に限定して使っている。ところで最近、『言語哲学大全I』を読んでいたときに、著者の飯田隆
 
これは極端な例であるが、これほど極端でなくとも似たような誤解は、しばしば見受けられる(しかも、学生だけとは限らない)。(5頁)
 
思考の表現手段としての言語への不満は、近代の「観念」の哲学においても、しばしば表明されて来た(現代により近い哲学者の中では、ベルグソンが、その顕著な例である)。(38頁)
 
というふうに、()の中に「。」を入れないで外に打つ場合と、
 
単なる健全な常識ではまったく歯が立たないような論証に哲学は満ちているのである。(もちろん、健全な常識こそが最良の武器となるような詭弁的論証も存在するが。)(5頁)
 
哲学の議論は、議論である以上、言語を用いてなされる。(それ以外に、どう、やりようがあろう。)(39頁)
 
というふうに、一文を丸々括っている場合とを、使い分けていることに気づいた。自分は、それまでは使い分けずに、ずっと丸括弧の後ろに句点を打ってきたが、気づいてからは「へー そんな用法があるのか」と思って、最近は使い分けるようにしている。(そしていったん使い分けるようにすると、前者の用法はあまり使わなくなってしまう。)
 ところで「本を読んでいたときに」と上で書いたけど、さっきまでその箇所は「本を読んだりしていたときに」と書かれていた。最初は、「読んだり」に並列される動詞はなくても別にいい、ということにして、気にすることなく書き進めていたが、書いていくうちに気になってきて、結局その前後も一緒にすべて書き換えてしまった。
 助詞の「と」も、「句読点を外に打つ場合と、一文を丸々括っている場合とを」なんていちいちつけてしまった。基本的には可読性が気になるときにつけるが(そしてだいたいいつも気になってつけるのだが)、今回は、可読性というよりもむしろ無性につけないといけないような気がした。
 
 
 本当は、このブログではそういう制約から解放されて文章を書きたいと思っている。
  
 だから、いったんは口語的にあれこれ書いてみるのだが、大抵の場合あとで気になってしまう。そのあたりが中途半端な文章はだいたい読みづらいし、ぎこちない。どうせなら、もっと「徹底的に」気にしないで書きたい。ただ一方で、自分の中でルールを設けて統一したいとも思っている。ある程度の統一がないと、アナーキーで読みづらくなるだけだろう。
 ゆるやかな規範に従うことを覚えたい。あるいはおそらく同じことだろうが、ゆるやかな規範を創造したい。ところで「ゆるやか」という言葉は比較的好きで、「さしあたり…とゆるやかに定式化しておこう」とか、原稿でよく書く。ちなみに「さしあたり」も好き。
 
 「ゆるやかな規範」というのも、じつはたぶん正確ではない。本当はなにも考えずにキーボードを叩いて、それをそのままブログの記事にしたいのだ。昔はそういう感じで書いていたのだが、できなくなった。自分の文章に対する批判的な視線が内面化してしまったのだろうか。
 
 理想は、情報が頭の中に入ってきやすい、とにかく読みやすい文章である。論旨が明晰な文章とか、いわゆるクリアな文章も書きたいけど、それは一番の理想ではなくて、横書きなら左から右へと視線をズラすだけで内容が流れ込んでくるような、そういう負担なく読める文章を書きたいと思っている。
 ちなみに美文を書きたいとはあまり思っていない。書けるに越したことはないだろうが、書けなくていい。エモい文章も書きたいともあまり思っていない。これも書けるに越したことはない。最近、文学的感性が欠落していると人から言われることがよくあるけど、それは事実だと思う。実際、あえて極端に言えば、綺麗な景色を表現したければ、たんに「綺麗な景色が広がっていた」とだけ書くのがいい、なんて思ってしまう。 
 ここまで極端に言ってみると、「自分は本当にこんなことを思っているのか」という疑問が湧いてくる。本気で思っているわけではない、と補足しておきたいが、ただそれでも、無理にレトリックを駆使するよりは、そっちのほうがシンプルだし、なにより雑な表現だからこそ、自由に想像してもらえると思う。
 
 というか、今まで全然意識したことがなかったけど、もしかして小説を書く人の中には情報量を意識して調整する人たちもいるのだろうか。最初の一行から最後の一行までずっと、綺麗な景色が広がっていた、みたいなレベルの情報量しかなければ、読むほうも想像可能性の自由さを、かえって不自由に感じてしまうかもしれない。自分なんかは、風景や登場人物の容姿が丁寧に描写されていると、読むときに不自由さを感じる。もっと情報量を減らしてほしい、と思う。(書いてあることを書いてある通りにきちんと処理するのは、とても苦手だ。)
 小説を書く人の中には、そのあたりの妙をわかっていて、「ここは初期情報として設定してやる必要があるから、丁寧に情報を書く。ここは想像してもらえるように大雑把に書く」とか、そういう加減をする人たちもいるのだろうか。そんなことを計算づくで統制できる人はプロフェッショナルな感じがする。カッコいい。
 
 
 統制されている文章、が好きだ。書き手による高度な統制が効いている文章。卒論を書いてみて、アカデミックな文章は総じて書き手による高度な統制が働いていると、実感を伴ってわかった。
 
 マクロには、論述の順序や構成。伝えたい内容を説得的に伝えるには、どういう構成が望ましいと考えられるか。どういう議論が必要か。最低限どういうことを説明する必要があるか。
 具体例を出すとき。具体例をどのように発想するか、どのポイントを保存したくてその具体例を選んだのか。あるいは引用するとき。解釈、あるいは批判の対象としてなんらかのテクストを引用をするときに、その引用をどこから始めるか、どこで切るか、どこを省略するか。
 そういえば、テクストAの引用に参照指示を振るとき、他のテクストBへの参照指示もなんとなく書いてしまいがちだったが、あれは、AとBとになんらかの連続性が認められるかぎりにおいてでしか(あるいは、二つのテクストに無視できない断絶が認められないかぎりにおいてでしか)、振ることは許されないのかもしれない、と今になって思う。
 
 他方でミクロには、文と文の間の接続語。この文とこの文を接続するときにはどういう接続語が最適か、そもそも接続語が必要か、どういう論理関係があると考えられるか。たとえば換言か、要約か、敷衍か。あるいは形容詞も、たとえば「大きい」と「大いなる」では語感が違うし、副詞についても「おおまかには」や「ただちには」といった文言の有無が、文(あるいは文章全体)に対して大きな影響を与えることは珍しくない。 
 上で述べたような括弧や傍点の有無もそうだし、句読点の位置も、一意的な可読性を保つために重要な役割を担っている。それと、日本語で書いていると意識しづらいが、数詞なんかもわざわざ書かれているときは重要な情報だと思ったほうがいいだろう。「一つの経験を可能にする一つの時間・空間」とか。
 
 
 べつに網羅的に書くつもりはなかったのだが、なんだか自分にとって判明にわかっている範囲で、それなりに網羅的に書いてしまった気がする。とにかく、高度に統制された文章というのは、こんな感じで、文章の一字一句、どの表現をとっても書き手による明確な意図にもとづいた選択がなされているものだと思う。
 
 自分の経験を言えば、こういうアカデミックな文章は、それを読んだり書いたりすることに慣れていなかったときは、冗長で不明確で、「装飾」の過剰な文章としてしか受け取ることができなかった。しかし一度こういう書き方を意識的に訓練してみると、これまで自分の書いてきた文章が、きわめて緩慢であったことに気づかされる。書くときに統制ができていなかったころの文章は、誤読を誘い込む余地に満ちていて、危なっかしいものに感じられる。そしてまた、こういうふうに、文章を書く際に可能な選択の「全体」を意識してみると、読むときにも、一字一句の重みがこれまでとは違って感じられる。高度に統制されたテクストは、一文一文が、よくできた物語の伏線のごとく緊密に張り巡らされているとわかる。
 ところで、世の中には、高度に統制されていながらも、多様な解釈を許容するテクストというのがおそらくあって、これはどういうことなのかよくわからない。統制が徹底的ではない、という素朴な原因に回収されるものなのだろうか。あるいは、多様な解釈を許容するように統制されているのだろうか。まあ当然テクストにもよるだろうが、たとえば『存在と時間』は、高度に統制されているように見える一方、ハイデッガー自身は誤解されたと思っていたわけで、これはハイデッガー自身の考えていたことが異常に難しかったために、高度な統制を試みたがそれでも追いつかなかったとか、そういう事情なのだろうか。
 
 
 自分の卒論を、何度か読み返して、この箇所はかなり神経質になって書いたなあとか、この箇所はデタラメに書いてしまったなあ、とか、さまざまなことを思った。そして、そういう配慮を読んだ人にちゃんと汲み取ってもらえると嬉しくなる。伝わらないときは、自分の書き方が悪かったのだろうと思う。(もちろん自分も人間だから、相手の読解力を恨むことだってある。)
 
 このブログではそういう神経質さからは解放されたいと思っている。あるいはいっそのこと、ごく自然に、神経質に振る舞いたい。前回の記事なんかはかなりデタラメに書いたので、話の焦点がかなりぼやけてしまったように思う。まあ、混雑した頭の中を書き出して、日を置いて、読み直して、考えが整理されたというのもあるので、書いている最中はなにも明確ではなかったのだが。場合によっては、アレを読んで整理されたこと、新しく思ったことを書いてみてもいいかもしれない。
 
 
 ところで、ちょっと変な話でもあるとは思うのだが、このブログは(非公開アカウントの)Twitterよりも正直に書きたいとも思っている。それで「神経質さ」に関連して本当はこの記事に書きたかったことがもう一つあったが、ここまでで少し長くなってしまったので今回はやめておく。また神経質さについて書きたくなったときに書こうと思う。

わからないこと、あるいはわからないということについて

 なぜ哲学を勉強しているのか。ここ一週間ほど頭の片隅でぼんやりと考えていたが、まったくわからなかった。もちろん「なぜ」という問いが要求する答えは場面によって変わるわけだが、それを考慮する必要はとくにないだろう。あらゆる意味で、理由が見つからないからである。
 
 たとえば一つの回答として実存的な動機が考えられるだろう。要するに、なにか悩んでいることがあって、それを考えたくて哲学を勉強し始めた、とか、そういうタイプの動機である。「なぜ哲学をやっているのか」と訊く人の多くは、このタイプの動機を知りたくて質問をしているのだろうと自分は思っている。そして、「なにか悩みがあって哲学をやっている」というのが、哲学科に対する一般的なイメージでもあるのかな、と思っている。
 実際のところ、哲学をやりたい人が全員何かしら悩みをもって哲学をやっているかというと、そういう治療的な感じで哲学をやっている人は(意外と)少ない、というのが四年間哲学科に在籍しての印象である。逆に、勉強する理由に何が多いのかはよくわからないが、たぶん「こういうことに昔から関心があって考えたい」とか、悩みというよりは知的好奇心で哲学をやっているケースが大半かと思っている。(もちろん知的好奇心を満たす、というのもしばしば一種の治療でありうるだろうとは思う。)
 
 自分の場合、そういう動機はまったくないわけではない。二回生の初めのころだったが、時間が流れていくこと、あらゆるものが総じて生成変化していくこと、そうした時間の暴力性にとても耐えられなくなった時期があった。
 きっかけは、母校の文化祭を訪れたことだった。パソコンに残っていた昔のメモなどを見たかぎりでは、もっと以前から時間の暴力性にある種の非情さを感じていたようだったが、とくにこのときが一番切実に感じられていたと思う。あらゆる生成変化が自分を置き去りにして、ただひたすら加速していくような、そういう疎外感を覚えていた。母校になにか思い入れがあってそう感じたというよりは(まあ思い入れはあると言えばあるのだろうが、もっと屈折して、あまり健全ではない、そういう感情だと思う)、こんなことを書くのも恥ずかしいのだけれど、恋愛関係がその根底にあって、そういう疎外感を覚えたのだと思う。言葉だとか感情だとか意味だとか、そういうものが、あまりにもたやすく忘れ去られること。時の流れがもたらす、そういう変化に反抗したかったのである。
 
 こうした疎外感から、やがて「あらゆるものが生成変化するこの世界において、永遠性はどこにあるのか」という問題について考えるようになった。当時は、「なぜ時間は流れてしまうのか」といったように、これを時間論の問題として扱おうとしていた。そんななか、どういう気持ちで手に取ったかは忘れてしまったが、ハイデッガーの『形而上学入門』を読む機会があった。そしてそこで彼が、存在を現在のみに定位して解釈することに対して批判を向けていると知って、直感的に、「彼は過去や未来といった領域を護ろうとしていたのではないか」「これは自分が考えたいことに、何かしらのヒントとなるのではないか」と思ったのである。(ちなみにこの直感がどの程度正しかったかどうか、ということにはとくに関心はない。)
 そしてハイデッガーの時間論に関心を抱き、いろいろ読んでみたのだが、まあ無理だった。解説書や入門書を探ってみてもわからないし、肝心の『存在と時間』を読もうにも意味不明。貧弱な頭しかなかったので、木田元の書いたものを読んで「なるほどー」と思うのがやっとだった。今思うと、表面的な知識を頭に入れるのが精一杯だったのか、根拠のない断定が紛れ込んでいても気づかなかったし、まったく哲学的な読み方ではなかった。とにかく、そうしてしばらく何もわかっていない、あるいは同じことだが、概念とその連関を形式的・表層的にしか理解できていない、そんな時期が続いていた。
 
 少しずつ分かり始めてきたのは三回生の夏休みごろだった。カントやフッサールがちょっと理解できるようになると、ハイデッガーもだんだんとわかるようになってきた。たとえば「本来性」と「非本来性」というのは、カント倫理学で言うところの「人格」と「物件」の区別に対応するんじゃないかなあ、とか、そんなことをぼんやりと思っていた。そんな感じで、「これはこういうことかなあ」と考えているうちに、存在一般の意味への問いがとても身近なものとして感じられるようになってきたのである。(というより、それまでは時間に関心はあっても存在に関心はなかった。)
 そんなこんなで哲学的に物心がつき始めると、カントとフッサールの「超越論的観念論」に興味を抱くようになった。この哲学的教説は、総じて存在者を、生々流転する「現象」と永遠不変の「物自体」とに区別する考えと言っておけば、おそらく大きな間違いはないだろう。というより、当時の自分はそういうふうに理解していたので、「もしかしてこれで永遠性の問題が解決するんじゃないか」と思ったのである。
 だから、どこかの誰かから、メイヤスーが「まったく偶然的にすべては崩壊しうる」だとか主張しているのを聞いたときは、「自分の退けたい暴力性を最も極端な仕方で先鋭化しているやつがいる!」と、倒すべき敵が出てきたのを喜んだし、「なんだか応答責任がある気がする!」とよくわからない使命感に満ち溢れてもいた。
 ちなみに、卒論でメイヤスーに言及する気はもともとなかった。人から、「なんで存在者の存在についてこんなに考えたいと思っているのかわからない」というコメントをもらうことがあって、「実存的な動機とか卒論からは消したかったけど、あまり書く機会はないだろうし、せっかくだし書いてみてもいいかなあ」と思ったりして、それで提出間近になっていろいろと付け加えた。足して論文として完成度が上がったかどうかはよくわからないが、自分としては「なんか今なら黒歴史を生産しても許される感じがするし、もしかしたら偉そうなことが書ける最後のチャンスかも」と思いながら書いていた。執筆中、一番あのときが楽しかった。
 
 
 と、まったく予定外だったが、なぜ自分が超越論的観念論をいいと思っているのかを書いてしまった。ただ、超越論的観念論によって確保されるのは、一見して暴力的なまでの変転を見せることもある現象をじつは統制している「規則」であって、それは(いろんな人に指摘をもらって知ったのだが、)永遠性というよりはむしろ「斉一性」と言ったほうが適切なものだったように思う。たぶん、自分がもともと護りたいと思っていたものとは、少なからず違うのだろう。
 また、今は永遠性を護りたいと思っているかというと、正直そういうわけでもない。以前抱いていたほど切実でなくなった、というのはあるにせよ、最近はむしろ永遠性にどこか恐怖を感じることが多くなった。ずっと変わらないでいることよりもいつでも変われることのほうが、なんというか、柔軟だと思う。
 
 そういうわけで、実存的な動機はたしかに出発点としてはあったものの、今は希薄かなあと思っている。知りたいと思っていることはなくはないが、自分がやらなくても解明される気がしてしまうし、そしておそらくそれを読んだら満足してしまうだろう。
 
 
 一週間ほど、あるいはそれ以前から、頭の片隅でぼんやりと気になっていたことを言うのだが、哲学を勉強したいと思っている人たちは、幼いころに独我論的な気持ちになったり、反自然主義的な気持ちになったり、観念論的な気持ちになったり、有限的な気持ちになったり、とにかくそういうなんらかの気持ちになっていたりしたのだろうか。そうだとすると、自分はそういう気持ちを抱いた経験が、記憶の及ぶかぎりでは見当たらないし、なんだか引け目のようなものを少し感じてしまう。哲学を勉強してみようと思ったもともとの動機も、今思うと勘違いにもとづくものでしかなかったし、じつは自分はあんまり哲学をやりたいと思ってないんじゃないか、としばしば思う。
 
 まあ、そういうことは一回生のころから思っていたことでもある。自分の求めていたものが哲学にはないように思われて、まったく面白く感じられなかったし、適性もあまりないように感じていた。
 それで、とにかく無気力で大学にほとんど行ってなかったぐらいだったのにもかかわらず、上述してきたような感じで、二回生のころにめでたく勉強したいと思えるようになったわけだけど、この話にはもう一つ裏のようなものがあると(以前から)思っている。
 
 要は、ストーリーに乗っかりたかったのだ。「実存的な悩みを抱えていたときに哲学書を読んでみたら、なにか直感的に掴み取れたものがあって、そこから問題が解消される糸口を探っていこうと思って勉強を始めた」というのは、ありがちだし、わかりやすいし、なにより「こういう動機で哲学を勉強できたらカッコいいなあ」という自分の潜在的欲求を満たしてくれる筋書きだった。そう考えてみると、あのとき抱えていた「悩み」も、ストーリーに乗っかりたくて捏造されたものにすぎないんじゃないか、と思えてくる。
 そういうストーリーに乗っかって、あたかも「自分は寝ても覚めても存在について考えてます」みたいな顔をして、ゼミに出席して、講義を受けて、読書会をやって、飲み会で会話して。まあ、そういうふうに振る舞っていれば本当は自分がどう思っているのかなんてことはよくわからなくなってくるし、実際のところ、とても楽しかった。
 
 今は、言ってみれば「シラフ」に戻っている時期なのかなと思う。これまで乗っかっていたものの脆さに直面した、と言うべきなのだろうか、ちょっと違う気がするけど、まあ大きく外しているわけではなさそう。いや、根拠が無だったということに気づいた、と言うべきなのかもしれない。わからない。わからないといえば、「自分がなぜ哲学を勉強しているのか」も、こうやって書いてみたら少しはわかるかと思ったが、よくわからないままだった。
 
 ただ一つわかったことがあるとすれば、何かに乗っかりたいという気持ちはもうあまりないらしい、ということである。

混雑した自己了解について

 とある人に、「自分のことを全然話さないね」と言われた。
 
 とくにそういうつもりでもなかったし、話すべきことがあるとすれば、それはもう一通り伝えたような気もしていた。つまり、自分のことを話す必要性をあまり感じていなかった。
 自分の話というと真っ先に思いつくのは、好き嫌いとか趣味とかよりもむしろ、過去に経験したこととか、とにかくそういうのだが、自分の過去を振り返ってみても、誰にでも話せるような内容はあまりない、と思っているし、いつからか、親しい人間に話すとしても、それは最低限で済ませよう、と思うようにもなった。
 
 昔から人見知りするほうではあったものの、以前は、打ち解けさえすれば「いろいろと自分のことをすぐ話すね」と言われたりしたこともあったように思う。けれども、他人がどれぐらい自分に関心があるのかとか、一方的に早口で文脈を無視して喋り始めたりしてしまってないかとか、そういうことが気になり始めるようになって、いつしか自分の話をするのに、極端な抵抗が出てきてしまったというのも事実である。「自分のことを話さないね」と言われて、初めて自覚的になった。
 
 この「初めて自覚的になった」という言葉が示唆的かもしれない。自分のことを話さないと、自分の考えていることや思っていることを言語化せずに、あるいは言語化するとしてもせいぜいおおざっぱなラベルだけ貼り付けて、奥底に沈めておく、といったようなことが増えて、とにかく大抵のことは自覚的にならない。言ってみれば、自己了解が混雑した状態になっている。
 そのせいなのか、自分が何を好きで何を嫌っているかなんてことも、じつはよく知らないし、仮に好きか嫌いかがハッキリしていたとしても、なぜそれを好んでいるのか、なぜそれを嫌っているのかがわからない、といったようなことも珍しくない。もっとも、この程度の自己了解の混雑は一般に珍しくないかもしれないが、自分の場合は、たとえば本はもちろん、漫画やアニメやゲームなどに触れたときに、感想・コメントを求められても、なんだかぼんやりとしたことしか言えない、という程度に、自分が何を気に入って何を気に入らなかったのか、楽しかったとかつまらなかったとか、そのぐらいの素朴な感想は抱いても、具体的に何なのかはまったく言えないということが珍しくなくて、けっこう真面目に困っている。
 
 こういうふうに言語化をサボることの弊害は自己了解以外の面でも見られて、たとえば、時事ネタとか、またTwitterでタイムラインに流れてくるさまざまなツイートとかに対して、ぼんやりと思うところがあっても、ぼんやりと思ったまま見なかったことにしたり、そのまま忘れたりしている。ときどき「何を考えているかよくわからない」と言われることがあるけれども、おそらくほとんど何も考えていないというのが実情に近いのだと思う。
 
 言語化をサボっているくせに、先に書いた自分の話をすることへの抵抗もあいまって、自分の言語行為が周囲に対してどういう影響を与えるかがすごく気になり、Twitterが少し窮屈になってしまった。
 「これをツイートするのはどうなのだろうか」ということをよく考えてしまう。鍵アカウントだし、スクショでも撮られないかぎりはべつに炎上するということはないとは思うものの、140字以内の文字情報で何かを誤解なく伝えるのは難しい。字数を費やせばいいのかもしれないけど、ツイートをして、それに続く次のツイートを考えているうちに、なんらかリアクションがきてしまうのではないか、とか考え始めてしまうともう一気に面倒になる。
 ツイートの末尾に「続く」とでも書いておけばいいのかもしれないが、「続けないといけない」といった感じに、なんだか拘束が生じるような気がして、今度はそもそもそこまでしてツイートするほどの情報かどうか考え始めてしまう。考え始めてしまうと言っても、ほとんど考えず、数秒で諦める。仮に誤解なく伝わりそうなツイートが140字以内で書けたとしても、日本語がおかしくないかとか、頭の悪そうなことを言ってないかとか、いろいろなことが気になってしまって、ツイートせずに消してしまうことも多い。
 
 
 昨日、眠れなくて、自分がいつかどこかで書いたらしい、ブログの下書きのようなものを読み返した。日本語が拙いというか、背伸びした表現というか、言葉足らずというか、あるいは、「この人に対してこんな言い方しなくてもいいのに」とか、「昔の自分はこんなに人間を見下していたのか」とか、ある種の幼さ――ところで、この「ある種の」という言葉もしばしば思考を曖昧にしておくために使われているように思えるし、今の自分の用法も例外ではない――を感じた一方で、「昔の自分はこんなことを考えていたのか」とか、「このときの考えていたことや抱いていた感情はもう忘れてしまったな」とか、とにかく「さまざまな」思いが生じた。
 
 ある程度まとまった自分の考えやら気持ちやらを、不完全ながらも文章として残しておく。そういう作業をここ数年(大学のレポートなど以外で)まったくしていなかったような気がするし、現に今、こうやってブログを久々に書いてみて、なんというか、不自由な感じがする。こういうふうに、気楽に文章を書いていたときの感覚がよくわからなくなっている。昔は5000字ぐらい、もっとスラスラ書いていた記憶があるが、今書いているこの記事はまだ2000字にも満たない。句読点の打ち方もわからない。文と文のつなげ方もわからない。どれぐらいゆるく書いていいのかもわからない。どういうふうに話題をつなげて、あるいは飛躍させていいかもわからない。とにかく、書きづらい。
 
 少しリハビリも兼ねて、何の需要があるのかもわからないが、そんなことはまったく気にせず、このブログでハッキリと言語化することを習慣づけてみたいと思う。べつに毎日書くつもりはまったくないが、とにかく何かぼんやりと思って、Twitterにも書きづらいと思ったことは、こっちに書く。というか140字以内でまとまったこと書くの無理。「寒すぎてサーモグラフィーになった」とかぐらいしか書けることないだろ。
 
 と、ここまで書いてきてなんだかちょうどよく疲れてきた。こんなに時間かけて書くつもりはなかったんだけどなあ。
 
 そういうわけで、書いてみたいことは全くないわけではないし、気の向いたときに、少しずつなにか書きます。まずは混雑した自己了解を判明にしていこうと思う。