書くとは何の謂いか

Was heißt Schreiben?

神経質さ、あるいはhighly-controlledなテクストについて

 自分は文章が下手だと思う。ときどき「文章うまいね」と言ってくれる人はいるし、褒められて「そうか文章がうまいのかー ははは」とちょっとだけ思ったりすることはあるけど、基本的に自分の文章がいいとはあまり思っていない。もう5年ぐらい前に、「文章うまいし本出してくれたら買いたい」なんて言ってもらえたこともあったけど、(そしてどの程度本心で言ってくれたのかはわからないけど、)お金を出してまで自分の文章を読みたい人は、まあいないと思う。
 
 文章が下手になったのだろうか。とりあえず話をこのブログに限れば、まず文体が気に入らない。読んでると、だいたい文末でなんだか調子が狂ってしまう。書いてるときも、いつも文を無理に中断させているか、無理に引き伸ばしているような気持ちになる。ここで文が終わると思ったら続いたりするし、まだ文が続くと思ったら終わったりする。気に入らないことはわかるのだから、直せる気もするが、なぜか直せない。どこで区切ろうと思ってもしっくりこない。
 
 文体以外には、記号の使い方も気に入らない。この前人間に、鉤括弧の使い方が気に食わないと言われたけど、実際たとえば、卒論やレポートであれば〈山括弧〉を用いていたであろう箇所も、傍点を振っていたであろう箇所も、すべて鉤括弧にしているので、書いているほうとしても、かなり落ち着かない。まあブログで山括弧とか使うのもどうかと思うけど、傍点は振りたい。傍点大好きなので。
 
 心中表現だし丸括弧かなあ、という部分も鉤括弧にしている。何なら今のように心中表現として扱っても良さそうな箇所でも、鉤括弧を使ってないことだってある。丸括弧はもっぱら(こんな感じの)補足に限定して使っている。ところで最近、『言語哲学大全I』を読んでいたときに、著者の飯田隆
 
これは極端な例であるが、これほど極端でなくとも似たような誤解は、しばしば見受けられる(しかも、学生だけとは限らない)。(5頁)
 
思考の表現手段としての言語への不満は、近代の「観念」の哲学においても、しばしば表明されて来た(現代により近い哲学者の中では、ベルグソンが、その顕著な例である)。(38頁)
 
というふうに、()の中に「。」を入れないで外に打つ場合と、
 
単なる健全な常識ではまったく歯が立たないような論証に哲学は満ちているのである。(もちろん、健全な常識こそが最良の武器となるような詭弁的論証も存在するが。)(5頁)
 
哲学の議論は、議論である以上、言語を用いてなされる。(それ以外に、どう、やりようがあろう。)(39頁)
 
というふうに、一文を丸々括っている場合とを、使い分けていることに気づいた。自分は、それまでは使い分けずに、ずっと丸括弧の後ろに句点を打ってきたが、気づいてからは「へー そんな用法があるのか」と思って、最近は使い分けるようにしている。(そしていったん使い分けるようにすると、前者の用法はあまり使わなくなってしまう。)
 ところで「本を読んでいたときに」と上で書いたけど、さっきまでその箇所は「本を読んだりしていたときに」と書かれていた。最初は、「読んだり」に並列される動詞はなくても別にいい、ということにして、気にすることなく書き進めていたが、書いていくうちに気になってきて、結局その前後も一緒にすべて書き換えてしまった。
 助詞の「と」も、「句読点を外に打つ場合と、一文を丸々括っている場合とを」なんていちいちつけてしまった。基本的には可読性が気になるときにつけるが(そしてだいたいいつも気になってつけるのだが)、今回は、可読性というよりもむしろ無性につけないといけないような気がした。
 
 
 本当は、このブログではそういう制約から解放されて文章を書きたいと思っている。
  
 だから、いったんは口語的にあれこれ書いてみるのだが、大抵の場合あとで気になってしまう。そのあたりが中途半端な文章はだいたい読みづらいし、ぎこちない。どうせなら、もっと「徹底的に」気にしないで書きたい。ただ一方で、自分の中でルールを設けて統一したいとも思っている。ある程度の統一がないと、アナーキーで読みづらくなるだけだろう。
 ゆるやかな規範に従うことを覚えたい。あるいはおそらく同じことだろうが、ゆるやかな規範を創造したい。ところで「ゆるやか」という言葉は比較的好きで、「さしあたり…とゆるやかに定式化しておこう」とか、原稿でよく書く。ちなみに「さしあたり」も好き。
 
 「ゆるやかな規範」というのも、じつはたぶん正確ではない。本当はなにも考えずにキーボードを叩いて、それをそのままブログの記事にしたいのだ。昔はそういう感じで書いていたのだが、できなくなった。自分の文章に対する批判的な視線が内面化してしまったのだろうか。
 
 理想は、情報が頭の中に入ってきやすい、とにかく読みやすい文章である。論旨が明晰な文章とか、いわゆるクリアな文章も書きたいけど、それは一番の理想ではなくて、横書きなら左から右へと視線をズラすだけで内容が流れ込んでくるような、そういう負担なく読める文章を書きたいと思っている。
 ちなみに美文を書きたいとはあまり思っていない。書けるに越したことはないだろうが、書けなくていい。エモい文章も書きたいともあまり思っていない。これも書けるに越したことはない。最近、文学的感性が欠落していると人から言われることがよくあるけど、それは事実だと思う。実際、あえて極端に言えば、綺麗な景色を表現したければ、たんに「綺麗な景色が広がっていた」とだけ書くのがいい、なんて思ってしまう。 
 ここまで極端に言ってみると、「自分は本当にこんなことを思っているのか」という疑問が湧いてくる。本気で思っているわけではない、と補足しておきたいが、ただそれでも、無理にレトリックを駆使するよりは、そっちのほうがシンプルだし、なにより雑な表現だからこそ、自由に想像してもらえると思う。
 
 というか、今まで全然意識したことがなかったけど、もしかして小説を書く人の中には情報量を意識して調整する人たちもいるのだろうか。最初の一行から最後の一行までずっと、綺麗な景色が広がっていた、みたいなレベルの情報量しかなければ、読むほうも想像可能性の自由さを、かえって不自由に感じてしまうかもしれない。自分なんかは、風景や登場人物の容姿が丁寧に描写されていると、読むときに不自由さを感じる。もっと情報量を減らしてほしい、と思う。(書いてあることを書いてある通りにきちんと処理するのは、とても苦手だ。)
 小説を書く人の中には、そのあたりの妙をわかっていて、「ここは初期情報として設定してやる必要があるから、丁寧に情報を書く。ここは想像してもらえるように大雑把に書く」とか、そういう加減をする人たちもいるのだろうか。そんなことを計算づくで統制できる人はプロフェッショナルな感じがする。カッコいい。
 
 
 統制されている文章、が好きだ。書き手による高度な統制が効いている文章。卒論を書いてみて、アカデミックな文章は総じて書き手による高度な統制が働いていると、実感を伴ってわかった。
 
 マクロには、論述の順序や構成。伝えたい内容を説得的に伝えるには、どういう構成が望ましいと考えられるか。どういう議論が必要か。最低限どういうことを説明する必要があるか。
 具体例を出すとき。具体例をどのように発想するか、どのポイントを保存したくてその具体例を選んだのか。あるいは引用するとき。解釈、あるいは批判の対象としてなんらかのテクストを引用をするときに、その引用をどこから始めるか、どこで切るか、どこを省略するか。
 そういえば、テクストAの引用に参照指示を振るとき、他のテクストBへの参照指示もなんとなく書いてしまいがちだったが、あれは、AとBとになんらかの連続性が認められるかぎりにおいてでしか(あるいは、二つのテクストに無視できない断絶が認められないかぎりにおいてでしか)、振ることは許されないのかもしれない、と今になって思う。
 
 他方でミクロには、文と文の間の接続語。この文とこの文を接続するときにはどういう接続語が最適か、そもそも接続語が必要か、どういう論理関係があると考えられるか。たとえば換言か、要約か、敷衍か。あるいは形容詞も、たとえば「大きい」と「大いなる」では語感が違うし、副詞についても「おおまかには」や「ただちには」といった文言の有無が、文(あるいは文章全体)に対して大きな影響を与えることは珍しくない。 
 上で述べたような括弧や傍点の有無もそうだし、句読点の位置も、一意的な可読性を保つために重要な役割を担っている。それと、日本語で書いていると意識しづらいが、数詞なんかもわざわざ書かれているときは重要な情報だと思ったほうがいいだろう。「一つの経験を可能にする一つの時間・空間」とか。
 
 
 べつに網羅的に書くつもりはなかったのだが、なんだか自分にとって判明にわかっている範囲で、それなりに網羅的に書いてしまった気がする。とにかく、高度に統制された文章というのは、こんな感じで、文章の一字一句、どの表現をとっても書き手による明確な意図にもとづいた選択がなされているものだと思う。
 
 自分の経験を言えば、こういうアカデミックな文章は、それを読んだり書いたりすることに慣れていなかったときは、冗長で不明確で、「装飾」の過剰な文章としてしか受け取ることができなかった。しかし一度こういう書き方を意識的に訓練してみると、これまで自分の書いてきた文章が、きわめて緩慢であったことに気づかされる。書くときに統制ができていなかったころの文章は、誤読を誘い込む余地に満ちていて、危なっかしいものに感じられる。そしてまた、こういうふうに、文章を書く際に可能な選択の「全体」を意識してみると、読むときにも、一字一句の重みがこれまでとは違って感じられる。高度に統制されたテクストは、一文一文が、よくできた物語の伏線のごとく緊密に張り巡らされているとわかる。
 ところで、世の中には、高度に統制されていながらも、多様な解釈を許容するテクストというのがおそらくあって、これはどういうことなのかよくわからない。統制が徹底的ではない、という素朴な原因に回収されるものなのだろうか。あるいは、多様な解釈を許容するように統制されているのだろうか。まあ当然テクストにもよるだろうが、たとえば『存在と時間』は、高度に統制されているように見える一方、ハイデッガー自身は誤解されたと思っていたわけで、これはハイデッガー自身の考えていたことが異常に難しかったために、高度な統制を試みたがそれでも追いつかなかったとか、そういう事情なのだろうか。
 
 
 自分の卒論を、何度か読み返して、この箇所はかなり神経質になって書いたなあとか、この箇所はデタラメに書いてしまったなあ、とか、さまざまなことを思った。そして、そういう配慮を読んだ人にちゃんと汲み取ってもらえると嬉しくなる。伝わらないときは、自分の書き方が悪かったのだろうと思う。(もちろん自分も人間だから、相手の読解力を恨むことだってある。)
 
 このブログではそういう神経質さからは解放されたいと思っている。あるいはいっそのこと、ごく自然に、神経質に振る舞いたい。前回の記事なんかはかなりデタラメに書いたので、話の焦点がかなりぼやけてしまったように思う。まあ、混雑した頭の中を書き出して、日を置いて、読み直して、考えが整理されたというのもあるので、書いている最中はなにも明確ではなかったのだが。場合によっては、アレを読んで整理されたこと、新しく思ったことを書いてみてもいいかもしれない。
 
 
 ところで、ちょっと変な話でもあるとは思うのだが、このブログは(非公開アカウントの)Twitterよりも正直に書きたいとも思っている。それで「神経質さ」に関連して本当はこの記事に書きたかったことがもう一つあったが、ここまでで少し長くなってしまったので今回はやめておく。また神経質さについて書きたくなったときに書こうと思う。