書くとは何の謂いか

Was heißt Schreiben?

共有しづらいことについて

 研究者になりたいという気持ちが以前よりも薄れてしまったと思う。
 
 上京して数か月経過して、新しく人に会うたびに「勉強するために上京してきて……」みたいな自己紹介をしているが、嘘をついている気持ちになる。全然勉強していない。一次文献や二次文献どころか、入門書の類すら読んでいない。まあ「まったく読んでいない」と言い切ってしまうとさすがに嘘にはなるものの、義務感に駆られてか、あるいはこれを読んだら意欲が回復するのではないかと思って手に取るぐらいで、だいたい数ページ読んでつらくなって閉じる。頭が働かないし、頭にも入らない。「専門は何ですか?」と訊かれても、本当に専門と言えるのかどうかもわからないハイデッガーの名前を出して、場合によっては一行も読んだことがないダメットやセラーズの名前を付け加えて「分析系も関心があって読みたいんですけど難しくて……」みたいな当たり障りのないことを言うだけ。関心があるならちょっとは読んで何か言えるようになれよと自分でも思う。
 せめて語学の勉強だけでもやっていればいいのではないかと思って何度か挑戦しているが、こちらはこちらで精神が荒んでくる。もともと好きじゃないからだろうか。鬱病のときは語学をやるといいなんて聞くけど、つらいです。読みたいものが全然ないのも良くない気がする。ちなみにまた語学が原因で院試に落ちる夢を見た。いい加減にしろ。
 次の院試のために卒論を書き直そうとしても、自分の文章がロクに読めない。議論の弱さにも判明度の低さにも新規性のなさにも絶望的な気持ちになる。今「卒論」って単語を入力しただけで精神が終わってきた。何も触れたくない。
 
 上京してなにかいいことがあったのかどうか、正直全然わからない。何もいいことがなかったと言いたくなるほどに認知が歪んでいる。おそらく本当にいいことがなかったわけではないと思う。拾えないだけで。 
 どうせこういう感じになるなら留年して院浪人という選択をしたほうがよかったんじゃないだろうか。図書館も使えないし。失ったものがいくらなんでも多すぎる。
 
 夏は昔を思い出すこともあって希死念慮が加速しやすくて、ウッカリするとウッカリしてしまいそうだけど、上京してこのタイミングでウッカリするのはあらゆる意味でダメな気がするし、できない。その代わりときどき衝動的に、人間関係のリセットをしたくなってTwitterのフォロー/フォロワーを全部解除してやめたくなることもあるけど、それもできないと思う。何もできないのでTwitterを見る頻度だけが減っている。
 
 生産性のない話が際限なく続きそうなので、このへんにしておく。精神が終わった状態のときに書かれた文章はあまり読み返したくない。というかインターネットにエビデンスとしてアーカイヴされてほしくないので、可能なかぎりブログに書きたくない。
 
 研究者になりたい気持ちが薄れてしまったとは言ったけれど、研究者にならないとしたらどうするのか。ここ四、五年の自分を見ている人からすると「あいつが研究者にならないとかあるの??」という感じがするかもしれないけど、あります。
 
 上京してから個別指導のバイトを始めて、夏休みで最近ようやく授業が入るようになって、小学生のころ全然できなかった算数を教えたりしているのだけど、意外と教えられてしまうし、けっこう楽しい。バイトに行く前、外出もしたくないほど精神が終わっていることは珍しくないのだけど、頑張って外出してバイト先に向かっているうちにすごい勢いで機嫌がよくなるので、すごい。すごいが早く現代文を教えさせろ。ほぼすべての生徒に「現代文の偏差値は二億あるので東大現代文ぐらいなら今すぐ解説できる」って宣伝してる。だから数学の質問をやめろ。
 というわけで、教えることはそれなりに好きだと思うので、たとえば予備校講師になることも考えなくはないが、ずっとやりたいタイプの仕事ではない気がする。現代文は明確な範囲が設けられている科目ではないし、比較的自由に授業ができる気がするけど、他の現代文講師のことを考えると絶望的な気持ちになる。全員が全員まともに字が読めないと言うつもりはないが(とはいっても大手予備校の模範解答を比較するとそんな気持ちにもなるのだが)、講師のあいだで科目に対する考え方があまり共有されていなくて、しかもそれぞれが「自分が一番現代文という科目を理解している!」みたいな感じでやっていってるので、対話可能性が低い。
 あとはまあ、もう何年も前だし、言った本人も本人なので気にする必要はないのだろうけど、「ばじるちゃんの将来良くて予備校講師とかだと思う」みたいなこと言われたのが引っかかっててそっちの方面に乗り気ではないというのは否定できない。(実際のところ教育業という意味では大学教員になりたい気持ちはわりとあるが、研究にあまり興味がないんじゃないかと思い始めているし、そもそもできる気もあまりしない。)
 
 上京して間もない時期に精神が終わっていたころ、さまざまな心情を紛らわすためにフリゲをプレイしたり、ツクールをいじっていたりした。精神状態を安定させるという意味では一番効果があったが、あまりにも他のことに気が回らなくなるのでちょっと困る。寝食はふつうに忘れるし、性欲も消滅する。性欲が消滅するのはデカい。本気でやり始めると何もかもがダメになりそうな気がするので本気でやらないことにしている(が、もう十分ダメになりつつある気がする)。卒論を書いていた時期は夢の中でも存在者の存在について考えていたけど、ゲーム制作は夢は見ずにただ起きていることになる。
 あと、哲学を四年ぐらい大学でそれなりに真面目に勉強して頭よくなったのか、制作の効率が上がった気がする。以前よりもアイディアやネタを考えやすくなっているし(思いつきやすくなったというよりは「ここがこうだからこうしたほうがいい」というふうに考えやすくなった)、デバッグもやりやすくなった。なんかよくわからない現象が起きても、昔より原因を見つけるスピードが格段に上がったと思う。Ruby、いまだに付け焼刃程度の知識しかもってないけど、もう一度勉強し直したらなんかいい感じになるのではないか。
 
 研究職になりたいと思うようになる前はずっとゲームクリエイターになりたいと思ってきたわけで、研究職を考えたのも今思うと消極的な理由が大きくて、そう考えるとゲームクリエイターとかになったほうが人生の幸福度は上がりそうな気がする。が、あっちはあっちで業界のことを考えると絶望的な気持ちになる。七年ぐらい前は往年のスクウェア・エニックスが出してきたような重厚長大なRPGとか、そういうのは時勢に合わないものとしてせいぜい敬遠されていたぐらいだったと思うけど、いつのまにかもうコンシューマーの時代が終わりかけている。「忙しいなかわざわざ時間を捻出せずともプレイできるソシャゲ最高!」みたいな。ソシャゲを毛嫌いしているわけではないけど、触れてみると自分が作りたいものとは違うなと思う。インディーズを盛り上げる方向性でやっていけばいいのかな。 
 「ゲーム(とくにRPG)は以前のように大作志向で続けていこうとしても制作費や制作期間が膨れ上がるだけで衰退の一途を辿る一方になってしまうと思うので、もっと多様性を許容していくべき」みたいなことをたぶん七年ぐらい、事ある毎に言っていたけど、最近は少し考えが変わってきた。いや、べつに「多様性を大事にしようぜ」みたいな考えから変わっているわけではないか。(ある種の)ゲームが、「これは第一義的にはゲームである」という立脚点を忘れて、映画的なものを目指そうとして大作志向になりがちな状況を、まったく肯定できなかったわけだけど、しかし完全に切り捨ててしまうのもどこか素朴というか、あまりゲームをよく知らない人たちからの「ゲームは所詮ゲームなんだね」みたいな印象を助長してしまうと思う。業界全体としては、まあそんなもの放置していればいいかもしれないけど、個人的には、そういう偏見をぶっ壊したいと思ったのが、昔ゲームを作りたいと思った動機の一つだったのだ。よく思い返してみるとそうだ。ぶっちゃけ完全に忘れていた。
 
 これについては、また時間を見つけてブログとかに書いておきたいなと思ったりはするけど、そんな時間あるのかな。書くならまずは(自分にもうほとんど呪いに近い影響を与え続けている)「SeraphicBlue」について考えをまとめておくことから始めたい。なんで一個人の作ったフリーゲームがそんなに10年近くも不動の地位を占めるのかと自分でも思う。そろそろもっととんでもない衝撃を与えてくれる作品が出てきてほしい。衝撃という意味なら去年の「シン・ゴジラ」は正直それに匹敵するものはあったけど。やはり自分の中でフィルターができてしまって、もう同じ作者の「SadmireBlue」しか期待には応えてくれなくなってしまったのだろうか。出てほしかったし、たぶん自分に大きな衝撃を与えてくれる作品にはなったと思うけど、ドハマリするほど好きな作品になったかどうかは微妙な感じがする。まあ事実上の開発中止となった今、アレはアレで決して到達できない理念的な何かとして、やはり呪いに近い影響を自分に与え続けている(し、今後も与えると思う)ので、そのうち思うところをまとめたい。
 
 そういえば精神が停滞していたあいだプレイしていたフリゲのレビューとか書きたいな。最近はプレイしていると焦りとかさまざまな感情が生じてくるのでもう新規に何かプレイすることはできない気がするけど。とりあえず「妖刀伝」は面白かったです。
 
 
 意外と字数が多くならなかった。ゲーム、話に深入りすることを避けすぎたかな。むしろ深入りしすぎたか。前半と後半で書いているときのテンションの落差がめっちゃ激しかった。
 研究職になりたいと思ったそもそもの動機とかはあえて書いてません。書くべきだったかもしれない。いつも話すことにわりと抵抗があるのだけれど、この際書いたほうが良かったかな。
 
 ちなみに、哲学研究者になるのをやめたとしても、哲学をやめるということはたぶんない気がする。結局、院試から逃げたいだけなのかしらね。