書くとは何の謂いか

Was heißt Schreiben?

2017年について

 断片的に。
 
1.
 最近よく冷たい人になりたいと思う。ここ数年、世の中は(自分が思っていた以上に)悪意に満ち溢れているなとしばしば思わされるし、自衛の意味も兼ねて冷たくなりたいけど、べつにそういうことだけではなくて。
 たとえば自分はフリーゲームを作っていたことがあって、おそらくはそういう経験から、無償で何かすることを、(あるいはきっと無償で何かをしてもらうといったことも)取り立てて特別なこととして捉えていなかった。そこのあたりの感覚が、どうにも変わりつつある。「無償ってどうなんだろうね」という具合に。まあ、自分が作るゲームに関しては今のところ有償にできるようなものではないと思っているけれども、「或る程度のクオリティが伴ってきたら別にフリーじゃなくシェアにしてもいいのでは?」と少しだけ考えるようになった。他にもここ二年ほど、自分がもっている入試現代文の知識やらノウハウやら考えてきたことやらを教育に携わっている人に無償で提供・還元していたけど、これも「本当は有償にできるものなんじゃないか」と思ったりする。(するだけでしないと思う。)
 なぜそう思うようになったのか、いろいろな理由はあるけれど、一つには、ここ一年ほどあまりにもお金がない生活をしていたせいもあるのだろう。以前なら「そんなことでお金とらなくてもいいんじゃないかなあ」みたいに思っていたことでも、「まあ生活するの大変だからね」と思うようになった。実際2017年はEntyで某サイトの有料スクリプト素材なんかを買ってみたけど、かなり満足できるものだったし、それほど高いわけでもないので、もう少し金銭的に余裕ができたら有料のグラフィック素材やBGM素材も開拓してみようかなと思った。
 金銭的なやり取りや経済的な事情にリアリティがもてるようになった、と言うと、なんだか「今まで世間知らずすぎたのでは?」という気もしてくるけど、要するにそういうことだと思っている。
 お金を対価に何かを得る、というのは、無償で何かをしてもらう関係と比べると、かなりシンプルでわかりやすい。この関係のシンプルさは、貨幣という複雑なシステムのおかげなのだと思う。対して、無償で何かをする/してもらうというのは、基本的には人間と人間の信頼関係に依存している。これは貨幣と比べれば概念的にはいたってシンプルに感じられるかもしれないが、その実、現実的にはかなり複雑だし、面倒なものだろう。素朴な言い回しに頼れば、人間と人間の関係は、貨幣制度よりも脆く、不安定なものだ。ビジネスライクな関係であれば、「面倒だな」と思ったらお金のやり取りを切ってしまえばいいけれども、人間関係の場合はそうもいかない。もちろん無理やり切れなくはないが、貨幣で結ばれている関係ほど穏便に切ることはできないだろう。
 当たり前だが、世の中は人間関係で動いている領域も相当あるにせよ、ビジネスライクな関係で動いている領域も決して無視できない広さを占めているわけで、自分はまだ出たことはないけれども、いわゆる「社会」に出てしまえば、大半の関係はビジネスライクなそれに変質するのだろうと思う。たぶん、自分がここ数年感じていた、世の中に満ちている「悪意」とやらは、利害関係がたんに表出しただけにすぎないものも少なくなかったのではないか。他人のことは所詮は他人のことだし、メリットやデメリットがなければ動かないことも多い。動くときにメリットやデメリットを考えるという感覚は正直なところまったく持ち合わせていなかったのだが、そしてそればかり考えて行動するというのはいささか非情すぎる気もするが、しかしまったく考えていないというのは、いくらなんでも理性的ではなさすぎるのだろう。人は(自分が思っていた以上に)理性的で合理的に動いているし、周囲からしてみれば自分はまったく合理的に動いていないのだろうと思う。
 そういえば、「他人のことは所詮他人」という感覚もかなり弱い。人がすごく不機嫌になっていたり怒っていたり悲しんでいたりすると、そのペースに巻き込まれてしまって、頭があまり働かなくなったり、ストレスを感じたり、暗い気持ちになったりする。たぶん、そういうのは或る種の人びとにはよくあることだろうと思う。メンタルがヘラっている人と話していると、「何とかしなきゃ」という気持ちになったりするけれども、他人は他人なのだから、それは当人がどうにか処理すべき感情なのであって、自分のものではない。そう考えたほうが、自分にとってはもちろんのこと、相手にとってもストレスが最小限で済む。そういう割り切り方も、以前なら「ドライだな」と感じていたが、考えてみればとくにドライと言うほどドライではない。お互いに救われる選択だと思う。
 冷たい人になろうと思うぐらいでちょうどいいのだろう。自分はなんだかナイーヴすぎる。
 
 
2.
 人間は過去のことをとくに大事にはしていないと思う。
 しばしば言われるように、過去に対する解釈は、現在の状況に対する解釈に依存している。つまり、たとえば調子が悪いときは、現在の状況の悪さは、過去の出来事に起因していると思ったりして、過去を悪いものとして解釈してしまったりするし、逆に調子がいいときは、当時どれだけ悪いことのように感じられていた経験であったとしても、「あのときも悪くなかったな」と過去を肯定的に解釈してしまったりする。(こういう解釈の不定性はすごく馬鹿馬鹿しい。)
 と、こんなふうに思っていたけれども、むしろ大半の人間は、調子が悪いときにわざわざ過去のことを振り返ったりする余裕もないし、調子がよくなれば、過去のことなんかどうでもよくなってくるのではないか。
 小学校のころ、友人が「幼稚園のころ同じ組に誰がいたかなんて覚えていない」なんて言っていてかなり驚いたことがあった。自分もさすがに今になって幼稚園のころに同じ組に誰がいたかなんて明確には覚えていないにせよ、おそらく会って名乗られたら「ああ、君ね」と思い出せるとは思う。小学生当時は「こいつは記憶力がよくないんだな」程度にしか思っていなかったが(そして本当にそれだけだったのかもしれないが)、実のところ、小学校に上がってしまえば幼稚園のことなんかどうでもよくなるのではないか。
 幼稚園や小学校はちょっと極端かもしれない。高一のころ、同級生に「中一のときにこんなことあったよね」と言っても誰一人覚えておらず、「この場所で人がこういうふうに配置されていてこいつがこんなことを言ってそれに対してこいつがこんな表情をした」と頑張って思い出して子細に説明してみてもやはり誰一人思い出すことなく、自分がパラレルワールドからやってきた人間みたいになってしまったことがあった。(まああまりに詳しく思い出して語ろうとすると多分に想像に依拠せざるを得なくなってくるとは思うので、かえって他の人びとの想起を阻害していたかもしれないが、それはそれとして。)一応、中高一貫に通っていたので幼稚園から小学校よりも連続性があるはずだし、中高時代は幼稚園や小学校のときよりも意識がハッキリしていて記憶していることも多いだろうと思っていたけれども、三年もすればちょっとしたことなど忘れてしまうのかなと、そのときは感じた。
 なんだかやや婉曲的な記憶力自慢めいてきたが、正直、自分の記憶力にはあまり自信はない。観たアニメや読んだ本や漫画の内容なんかもだいたいよく忘れているし、そもそも直近の出来事でもしっかり思い出せないことは別に少なくない。これらはたんに、自分が或る種の過去の経験を、頻繁に想起しているだけなのではないかと最近思いつつある。
 昔の話をすると「思い入れがあるんだね」みたいな受け取られ方をすることがある。そのたびに「別にそういうわけではないけど」と断りを入れてきたけれども、実のところ、人より思い入れはあるのかもしれない。まあ中高時代に対して「思い入れがある」で片づけられてしまうのにあまりいい気がしないのでそういう断りを入れてしまうのもあるけど(めんどくさい人間だと思う)。嫌だったこともかなり長いあいだ覚えているので、「根に持つタイプだ」なんて思われたりすることがあって、それも違うと自分では思っていたけど、実際はたぶんかなり根に持つタイプなのだろう。唐突に昔のことを思い出して、ついさっきあった出来事であるかのように怒りが溢れてくるというのは、なんら珍しいことではない。
 もう少し、過去のことなんかどうでもいいと思ってみてもいいのかもしれない。人生を明るくするためにも。
 
 
3.
 実家に帰ってきたらテレビで自分の苦手な雰囲気の邦画が流れていた。出演者の名前から検索をかけてみたら『彼らが本気で編むときは、』という映画らしい。途中からちゃんと観たわけでもないので良い作品かどうかは判断しかねるが、そういう評価とは別に、終始一貫して自分の苦手な雰囲気が流れていたであろうことはほぼ間違いないと思う。
 小一のころ(2000年の年末)、『鉄道員(ぽっぽや)』の映画がテレビで放送されていたときに、初めてそういう雰囲気を苦手と感じるようになったと記憶している。ちょうどそのころは弟が産まれたばかりで、母親は産後入院しており、母方の祖母や父方の祖母が入れ違いで家に訪れて、家事を手伝ったり弟の顔を見たりしていた。二人とも家に訪れるや否や「『ぽっぽや』が観たいねえ」みたいなことを言ったのだろう。少なくとも三回ぐらいは(録画していた)『ぽっぽや』がテレビで流れていたと思う。上述した作品と同じく、別にちゃんと観ていたわけではないのでストーリーは今もよく把握していないし、演出もハッキリとは覚えていないが、背景で流れる環境音、人間たちの微妙な距離感、人間たちの微妙な表情の変化、人間たちの実存に密着した会話、そしてその会話の生み出す微妙な空気感、そういった種々の要素がとにかく苦手だと感じた。言ってみれば、人間が(ただ)生きている有様を描いたタイプの物語を受容する感性を自分はまったくもっていないのだと思う。無論のこと、小一のころだったわけだし、基本的にそんな年齢でこの種の物語を十分に受容できるわけがないのだが、しかしそれでも原体験として強く根づいてしまっていて、今でもこの手のタイプの映画を観たいとはあまり思えなくなってしまっている。実家からけっこう近い場所に映画館があるので、(おそらく「映画好き」というほどでないわりには)よく映画を観に行ったりするのだけれど、だいたいいつも「派手な爆発が起きそうか」「アクションシーンはどれぐらいありそうか」ぐらいの規準でしか映画を選べずにいる。(そして脚本的にはわりとハズレを引いていることが多いと思う。)
 ところで余談だが、2017年に観た映画のうち『アトミック・ブロンド』は、かなりアクションシーンの見せ方がわかっている人の作品だと思った(まあ監督の経歴を調べれば「こだわりがあるのも当然か」という気はする)。ストーリーテリングについても色々思うところがあるけれども、とにかくアクションシーンだけで十分見る価値があると思う。
 閑話休題。別に映画に限らず、たとえば文学、とくに純文学と呼ばれるようなジャンルのフィクション作品も、自分はあまり読むのが得意じゃない。だいたいそういうのは人間の人生に対する無関心さに由来しているようだ。実際のところ、この年になるまで、人と仲良くなろうとすることと、人(の人生)に興味をもつことをあまり区別していなかった。相手の人生の興味をもたなくても楽しくお喋りをしていればその人間と仲良くすることはできるし、その人間と仲良くしなくてもその人間の人生に興味をもつことは十分できる。この二つが独立であることに気づくと、人間の人生に対していくらか自覚的に興味関心をもてるようになるわけだが、そうすると確かにフィクション作品の受容も変わってくる。
 たとえば2017年に観たアニメに『プリンセス・プリンシパル』があって、いつもなら自分は物語作品を鑑賞する際にそのストーリーテリングにしか(ほぼ)目が向かないのだけれども、この作品を「キャラクターがそれぞれ背景と感情と人格をもって自律的に動いているのだ」と思って観てみると、各々の細かい動作や表情、言動といった部分にかなり多くの情報が託されていることに気づく。もちろん『プリンセス・プリンシパル』がそういう描写に力を入れているだけと言うこともできるが、いずれにせよ普段なら流していたであろう部分を相当に多く拾い上げることができたのは、自分にとってかなり大きな意味をもつ物語体験となった。
 人間の人生に対して関心をもつようになれば、今まで楽しめなかったことも楽しめるようになるのだと思う。だからこれからは人間の人生に関心をもつようにしたい。その分、悲しみを拾ってしまうことが多くなるのかもしれないけれど。
 
 
4.
 自分の恋愛観は素朴すぎるんじゃないか。
 高校のころは、結婚願望も子どもをもちたいという願望もなかった。自分は誰かの親になれるような人間ではないし、別に一生独りでもいいかなと思っていた。思っていたが、今考えてみれば小六から中一にかけてすごく好きだった人がいて、恋愛に対するそれなりに強い憧れは昔からあった、と思う。結婚願望が無みたいなのはフェイク野郎だったのかもしれない。
 みたいに、恋愛願望があったということは結婚願望もあったのだろうと一瞬考えてしまう程度には、恋愛と結婚というのは自分にとってかなり同じものだ。その先に結婚が存在しない恋愛とは、いったい何なのか。ただの不誠実な遊びではないか。そんなふうにも思うが、しかし、真剣に誠実に交際をして、そして付き合って相性が悪かったと判明したのではなくてむしろ仲良くできて、さらには家庭の事情で交際相手とは別に結婚しなければいけない相手が出てきたとか経済的な事情で結婚が不可能であるように思われてきたとかそういうわけでもなく、端的に「恋愛の相手としてはよかったけれども、結婚の相手としては選べないから別れる」というのは、普通にありうる話だ。まあちょっと極端かもしれないが、十分想定可能だろう。
 恋愛と結婚の不一致というのは、以前と比べて理解はできるようになったと思うけれども、今でも共感はできない。以前なら一致しない可能性すら考えなかった。或る種の女性と会話していて初めて気づいたことだ。
 そういう或る種の人の恋愛観や結婚観は、なんだか悲観的にさえ感じられるのだけれども、実際は自分のほうが楽観的で現実が見えていないだけなんだろうと思うし、自分は子どもっぽいな、という気がしてくる。
 記念日は祝えるなら祝ったほうが楽しいと思う。人間と人間が付き合っただけの日なんて、人間が誕生した日と比べれば大した日ではないかもしれないけど。
 自分の体内にあるとき別の生命が存在するようになる、というのは確かに不気味なことだ。あまりリアリティをもっては感じられないけれども、そう思う。
 「食欲」「睡眠欲」「性欲」と三つの欲求があたかも対等な資格をもっているかのように並列されるのは変な感じがする。食欲と睡眠欲は満たさなければ生存に関わるとかそういうことではなくて、三つのうち性欲だけは人間に対して向けられる欲求であるということ。これはちょっと気持ちの悪いことのようにも感じられる。しかし普段はそんなこと気にもならない。考えようと思わなければとくに考える機会もない。
 恋人同士だった関係が結婚によって変質してしまうこと。そんなことがありうると或る時期までは考えたことすらなかった。自分の父親と母親は他の家庭と比べるとかなり仲が良い部類に入るらしいこともその一因だろう。まず夫婦喧嘩らしきものを見たことがないし、冷え切っている様子もない。(自分からしてみれば)かなりアレな経緯で結婚したことは知っているけれども、そういうタイプの結婚がここまでうまくいくものなのかと思う。むしろそういうタイプの結婚だからこそ、なのかもしれないが。
 人間が性欲をもつこと、人間が恋愛をすること、人間が生殖をすること、人間が家庭を築くこと、人間が両親を選べないこと、人間が子どもを選べないこと。どんなことも、自分は大して考えていないから楽観的なのだろうと思う。まあ、これから自分なりに考え抜いたうえで、なお結論が変わらないということは普通にあるだろうし、実際、そこまで悲観的に考えたくはない。
 自分の恋愛・結婚願望というのは、孤独に対する恐怖が一つにはある。たとえば死後しばらく経過した腐乱死体として発見されたくない。べつに家庭をもってもさまざまな経緯で最終的に一人になってそういう死を迎えることはあるだろうが、でも結婚によってその可能性から遠ざかることはできると思う。あるいは街中で見かけるホームレスを他人事だと思えたことが一度もない。自分も場合によってはああなるのだろうと、いつも思っている。これも家庭をもったぐらいでは完全に回避できるようなものではないにせよ、遠くなりはするだろう。『ウシジマくん』みたいな漫画も、「明日は我が身」と本当に感じられるので、とにかく読んでいて不安になる。(ただアレをまったく不安にならずに読むことができる人も、そうそういないだろうと思うが。)ああいう恐怖から逃れたくて、比較的安全そうなレールの上を歩いていたいという気持ちはわりとある。
 そんなレベルじゃなくても、単純に自分のそばにいてくれる人がいるのといないのとでは、人間の振る舞いや自己肯定感が大きく変わってくる。たとえば「こいつに嫌われても自分にはあの人がいるし」みたいなのとか。相手を信頼しすぎている気もするが、正直男女関係なくそれぐらい信頼の置ける相手じゃなければ普通恋人には選ばないだろうと思っている。アレな言い方になってくるが、絶対的に信頼できる人しか恋人にしたくないし結婚相手にしたくない。それなりに信頼して合っている男女が付き合っていないというのはまったく不合理なことのようにすら思える。(思えるが、当人たちの意思というものが当然あるわけで、それは尊重されるべきだ。)とにかく、人生においてそういう人を探して選ぶんだから、恋愛というのはかなり深刻で重要なことではないか。
 
 しかし、恋愛ごときで人生を左右されるというのはなんだか馬鹿馬鹿しい気がする。『若きウェルテルの悩み』なんかそうだろう。失恋して自殺するというのは、すごく馬鹿馬鹿しい気がする。馬鹿げているが、実際のところ自分はその種のストレスで精神的に追い詰められた経験が決して少なくない。というか、何なら毎回そうだ。死と人の決断はいつも突然やってくる。あらゆる瞬間に人の決断が迫っていると考えるべきだ。人の決断に惑わされていろいろアレしましたとか言って人を恨むのは違うだろう。恨むなら、その程度のことも見据えられなかった自分の想像力だ。
 あるいは、人の決断に先駆けて自分が決断してもよかったのだろう。そんなこと、怖くて考えたことすらないが。