書くとは何の謂いか

Was heißt Schreiben?

2017年について

 断片的に。
 
1.
 最近よく冷たい人になりたいと思う。ここ数年、世の中は(自分が思っていた以上に)悪意に満ち溢れているなとしばしば思わされるし、自衛の意味も兼ねて冷たくなりたいけど、べつにそういうことだけではなくて。
 たとえば自分はフリーゲームを作っていたことがあって、おそらくはそういう経験から、無償で何かすることを、(あるいはきっと無償で何かをしてもらうといったことも)取り立てて特別なこととして捉えていなかった。そこのあたりの感覚が、どうにも変わりつつある。「無償ってどうなんだろうね」という具合に。まあ、自分が作るゲームに関しては今のところ有償にできるようなものではないと思っているけれども、「或る程度のクオリティが伴ってきたら別にフリーじゃなくシェアにしてもいいのでは?」と少しだけ考えるようになった。他にもここ二年ほど、自分がもっている入試現代文の知識やらノウハウやら考えてきたことやらを教育に携わっている人に無償で提供・還元していたけど、これも「本当は有償にできるものなんじゃないか」と思ったりする。(するだけでしないと思う。)
 なぜそう思うようになったのか、いろいろな理由はあるけれど、一つには、ここ一年ほどあまりにもお金がない生活をしていたせいもあるのだろう。以前なら「そんなことでお金とらなくてもいいんじゃないかなあ」みたいに思っていたことでも、「まあ生活するの大変だからね」と思うようになった。実際2017年はEntyで某サイトの有料スクリプト素材なんかを買ってみたけど、かなり満足できるものだったし、それほど高いわけでもないので、もう少し金銭的に余裕ができたら有料のグラフィック素材やBGM素材も開拓してみようかなと思った。
 金銭的なやり取りや経済的な事情にリアリティがもてるようになった、と言うと、なんだか「今まで世間知らずすぎたのでは?」という気もしてくるけど、要するにそういうことだと思っている。
 お金を対価に何かを得る、というのは、無償で何かをしてもらう関係と比べると、かなりシンプルでわかりやすい。この関係のシンプルさは、貨幣という複雑な背景的制度に由来しているのだと思う。対して、無償で何かをする/してもらうというのは、基本的には人間と人間の信頼関係に依存している。これは貨幣と比べれば概念的にはいたってシンプルに感じられるかもしれない(あるいは少なくとも個別的事情を措けば、ただの二者間の関係としてシンプルに記述可能だろう)が、その実、現実的にはかなり複雑だし、面倒なものだろう。素朴な言い回しに頼れば、人間と人間の関係は、貨幣制度よりも脆く、不安定なものだ。ビジネスライクな関係であれば、「面倒だな」と思ったらお金のやり取りを切ってしまえばいいけれども、人間関係の場合はそうもいかない。もちろん無理やり切れなくはないが、貨幣で結ばれている関係ほど穏便に切ることはできないだろう。
 当たり前だが、世の中は人間関係で動いている領域も相当あるにせよ、ビジネスライクな関係で動いている領域も決して無視できない広さを占めているわけで、自分はまだ出たことはないけれども、いわゆる「社会」に出てしまえば、大半の関係はビジネスライクなそれに変質するのだろうと思う。たぶん、自分がここ数年感じていた、世の中に満ちている「悪意」とやらは、利害関係がたんに表出しただけにすぎないものも少なくなかったのではないか。他人のことは所詮は他人のことだし、メリットやデメリットがなければ動かないことも多い。動くときにメリットやデメリットを考えるという感覚は正直なところまったく持ち合わせていなかったのだが、そしてそればかり考えて行動するというのはいささか非情すぎる気もするが、しかしまったく考えていないというのは、いくらなんでも理性的ではなさすぎるのだろう。人は(自分が思っていた以上に)理性的で合理的に動いているし、周囲からしてみれば自分はまったく合理的に動いていないのだろうと思う。
 そういえば、「他人のことは所詮他人」という感覚もかなり弱い。人がすごく不機嫌になっていたり怒っていたり悲しんでいたりすると、そのペースに巻き込まれてしまって、頭があまり働かなくなったり、ストレスを感じたり、暗い気持ちになったりする。たぶん、そういうのは或る種の人びとにはよくあることだろうと思う。メンタルがヘラっている人と話していると、「何とかしなきゃ」という気持ちになったりするけれども、他人は他人なのだから、それは当人がどうにか処理すべき感情なのであって、自分のものではない。そう考えたほうが、自分にとってはもちろんのこと、相手にとってもストレスが最小限で済む。そういう割り切り方も、以前なら「ドライだな」と感じていたが、考えてみればとくにドライと言うほどドライではない。お互いに救われる選択だと思う。
 冷たい人になろうと思うぐらいでちょうどいいのだろう。自分はなんだかナイーヴすぎる。
 
 
2.
 人間は過去のことをとくに大事にはしていないと思う。
 しばしば言われるように、過去に対する解釈は、現在の状況に対する解釈に依存している。つまり、たとえば調子が悪いときは、現在の状況の悪さは、過去の出来事に起因していると思ったりして、過去を悪いものとして解釈してしまったりするし、逆に調子がいいときは、当時どれだけ悪いことのように感じられていた経験であったとしても、「あのときも悪くなかったな」と過去を肯定的に解釈してしまったりする。(こういう解釈の不定性はすごく馬鹿馬鹿しい。)
 と、こんなふうに思っていたけれども、むしろ大半の人間は、調子が悪いときにわざわざ過去のことを振り返ったりする余裕もないし、調子がよくなれば、過去のことなんかどうでもよくなってくるのではないか。
 小学校のころ、友人が「幼稚園のころ同じ組に誰がいたかなんて覚えていない」なんて言っていてかなり驚いたことがあった。自分もさすがに今になって幼稚園のころに同じ組に誰がいたかなんて明確には覚えていないにせよ、おそらく会って名乗られたら「ああ、君ね」と思い出せるとは思う。小学生当時は「こいつは記憶力がよくないんだな」程度にしか思っていなかったが(そして本当にそれだけだったのかもしれないが)、実のところ、小学校に上がってしまえば幼稚園のことなんかどうでもよくなるのではないか。
 幼稚園や小学校はちょっと極端かもしれない。高一のころ、同級生に「中一のときにこんなことあったよね」と言っても誰一人覚えておらず、「この場所で人がこういうふうに配置されていてこいつがこんなことを言ってそれに対してこいつがこんな表情をした」と頑張って思い出して子細に説明してみてもやはり誰一人思い出すことなく、自分がパラレルワールドからやってきた人間みたいになってしまったことがあった。(まああまりに詳しく思い出して語ろうとすると多分に想像に依拠せざるを得なくなってくるとは思うので、かえって他の人びとの想起を阻害していたかもしれないが、それはそれとして。)一応、中高一貫に通っていたので幼稚園から小学校よりも連続性があるはずだし、中高時代は幼稚園や小学校のときよりも意識がハッキリしていて記憶していることも多いだろうと思っていたけれども、三年もすればちょっとしたことなど忘れてしまうのかなと、そのときは感じた。
 なんだかやや婉曲的な記憶力自慢めいてきたが、正直、自分の記憶力にはあまり自信はない。(それでもたとえば過去についての証言で自分の記憶と他人の記憶とが食い違ったらまず他人を疑う習慣はついているが。)観たアニメや読んだ本や漫画の内容なんかもだいたいよく忘れているし、そもそも直近の出来事でもしっかり思い出せないことは別に少なくない。これらはたんに、自分が或る種の過去の経験を、頻繁に想起しているだけなのではないかと最近思いつつある。
 昔の話をすると「思い入れがあるんだね」みたいな受け取られ方をすることがある。そのたびに「別にそういうわけではないけど」と断りを入れてきたけれども、実のところ、人より思い入れはあるのかもしれない。まあ中高時代に対して「思い入れがある」で片づけられてしまうのにあまりいい気がしないのでそういう断りを入れてしまうのもあるけど(めんどくさい人間だと思う)。嫌だったこともかなり長いあいだ覚えているので、「根に持つタイプだ」なんて思われたりすることがあって、それも違うと自分では思っていたけど、実際はたぶんかなり根に持つタイプなのだろう。唐突に昔のことを思い出して、ついさっきあった出来事であるかのように怒りが溢れてくるというのは、なんら珍しいことではない。
 もう少し、過去のことなんかどうでもいいと思ってみてもいいのかもしれない。人生を明るくするためにも。
 
 
3.
 実家に帰ってきたらテレビで自分の苦手な雰囲気の邦画が流れていた。出演者の名前から検索をかけてみたら『彼らが本気で編むときは、』という映画らしい。途中からちゃんと観たわけでもないので良い作品かどうかは判断しかねるが、そういう評価とは別に、終始一貫して自分の苦手な雰囲気が流れていたであろうことはほぼ間違いないと思う。
 小一のころ(2000年の年末)、『鉄道員(ぽっぽや)』の映画がテレビで放送されていたときに、初めてそういう雰囲気を苦手と感じるようになったと記憶している。ちょうどそのころは弟が産まれたばかりで、母親は産後入院しており、母方の祖母や父方の祖母が入れ違いで家に訪れて、家事を手伝ったり弟の顔を見たりしていた。二人とも家に訪れるや否や「『ぽっぽや』が観たいねえ」みたいなことを言ったのだろう。少なくとも三回ぐらいは(録画していた)『ぽっぽや』がテレビで流れていたと思う。上述した作品と同じく、別にちゃんと観ていたわけではないのでストーリーは今もよく把握していないし、演出もハッキリとは覚えていないが、背景で流れる環境音、人間たちの微妙な距離感、人間たちの微妙な表情の変化、人間たちの実存に密着した会話、そしてその会話の生み出す微妙な空気感、そういった種々の要素がとにかく苦手だと感じた。言ってみれば、人間が(ただ)生きている有様を描いたタイプの物語を受容する感性を自分はまったくもっていないのだと思う。無論のこと、小一のころだったわけだし、基本的にそんな年齢でこの種の物語を十分に受容できるわけがないのだが、しかしそれでも原体験として強く根づいてしまっていて、今でもこの手のタイプの映画を観たいとはあまり思えなくなってしまっている。実家からけっこう近い場所に映画館があるので、(おそらく「映画好き」というほどでないわりには)よく映画を観に行ったりするのだけれど、だいたいいつも「派手な爆発が起きそうか」「アクションシーンはどれぐらいありそうか」ぐらいの規準でしか映画を選べずにいる。(そして脚本的にはわりとハズレを引いていることが多いと思う。)
 ところで余談だが、2017年に観た映画のうち『アトミック・ブロンド』は、かなりアクションシーンの見せ方がわかっている人の作品だと思った(まあ監督の経歴を調べれば「こだわりがあるのも当然か」という気はする)。ストーリーテリングについても色々思うところがあるけれども、とにかくアクションシーンだけで十分見る価値があると思う。
 閑話休題。別に映画に限らず、たとえば文学、とくに純文学と呼ばれるようなジャンルのフィクション作品も、自分はあまり読むのが得意じゃない。だいたいそういうのは人間の人生に対する無関心さに由来しているようだ。実際のところ、この年になるまで、人と仲良くなろうとすることと、人(の人生)に興味をもつことをあまり区別していなかった。相手の人生の興味をもたなくても楽しくお喋りをしていればその人間と仲良くすることはできるし、その人間と仲良くしなくてもその人間の人生に興味をもつことは十分できる。この二つが独立であることに気づくと、人間の人生に対していくらか自覚的に興味関心をもてるようになるわけだが、そうすると確かにフィクション作品の受容も変わってくる。
 たとえば2017年に観たアニメに『プリンセス・プリンシパル』があって、いつもなら自分は物語作品を鑑賞する際にそのストーリーテリングにしか(ほぼ)目が向かないのだけれども、この作品を「キャラクターがそれぞれ背景と感情と人格をもって自律的に動いているのだ」と思って観てみると、各々の細かい動作や表情、言動といった部分にかなり多くの情報が託されていることに気づく。もちろん『プリンセス・プリンシパル』がそういう描写に力を入れているだけと言うこともできるが、いずれにせよ普段なら流していたであろう部分を相当に多く拾い上げることができたのは、自分にとってかなり大きな意味をもつ物語体験となった。
 逆に、今まで自分はフリゲを作ったり、あるいは発表をしていなくても何か創作をしたりしていたわけだが、その手の作品にはことごとくキャラクターの心理的描写が(大げさに言えば)欠落していたのだろうと思う。実際、このキャラクターはこういうバックグラウンドを抱えていて、こういう感じで世界が見えていて、別のキャラクターがこういうことを言えばこういうことを思うのだ、と考えて何かを創作した経験が一度もない。自分の書くセリフが異常に薄っぺらくて悩んでいたこともあったが、たぶんそういうことだったのだろう。
 人間の人生に対して関心をもつようになれば、今まで楽しめなかったことも楽しめるようになるのだと思う。だからこれからは人間の人生に関心をもつようにしたい。その分、悲しみを拾ってしまうことが多くなるのかもしれないけれど。
 
 
4.
 たとえば『ゼノギアス』みたいな作品に対して「小説でいいじゃん」みたいなことを言う人が一定数いるが、そういう主張に対して共感できたことが一度もない。
 2017年は「自分はなぜ創作の媒体としてゲームを選んでいるのか」と考えることが多かった。ゲームで(いわゆる「自由度」や「ゲーム性」を犠牲にして)ストーリーに重きを置いた作品を出すと、決まって「これはゲームである必要がない」「小説でいい」なんて言い出す人間が出てくる。一番気に入らないのは、そういう人たちが、どういうわけか「このストーリーに最適な表現はゲームではなく小説だ」という意味ではなく、小説という表現媒体を「ゲームになりきれなかったストーリーを放り込む領域」として考えていそうなあたりだ。もちろん「それは悪意をもって解釈しすぎだ」という声もあるかもしれない。しかしそうだとすると、彼ら彼女らが高い確率で「漫画でいい」「アニメでいい」とは言わない理由はいったい何なのだろうか。すべてがそうではないとしても、多くは「ストーリーで勝負したかったらゲーム制作なんかやめて小説でも書いてろよ」ぐらいの意味しかないのではないか。
 もちろん制作コストの問題もある。つまり、漫画やアニメというのは、それはそれで制作コストや技術が必要とされる。だから、「このストーリーを表現したいのであれば、わざわざ漫画やアニメ以上に制作コストが必要とされるゲームを選ぶのではなく、もっとコストが軽く済む小説などを選んだほうがよかったのではないか」といった具合に。とくにフリーゲーム(たとえば『Seraphic Blue』)に対してこういう意見が寄せられるのであれば、それはまあ理解できる話だ。ただこの場合も、やはりストーリーの最適な表現手段として小説を提案しているわけではなさそうだが、これはこれで否定できない事実だと思っているので、前述した立場のように怒りは湧かない。でも、「ちょっと楽観的すぎるのではないか」と思ってしまう。
 楽観的というのは、つまり、或る表現媒体から別の表現媒体への「翻訳」が安易に可能だと考えていそうなあたりだ。たとえば漫画のアニメ化でも十分デリケートな問題になりうるのに、ゲームに対して安易に「小説でいい」と言えてしまうのは少し理解できない。当然「最初から小説として表現すればいい」という立場だろうから、すでに完成したストーリーを「翻訳」するのとはいくらか事情が違ってくるが、しかし自分としては、「あくまでゲームとして表現したいのであって、小説でも漫画でもアニメでもない」と言いたい。(言いたいし、他の作り手だっておそらくそう考えているであろうことは容易に想像がつく。「最初から小説として表現すればいい」というのは、そういった各々の制作動機に対してあまりにも無関心で冷たい立場として感じられる。)
 自分がなぜゲームを選んでいるのか。正直なところ、今まで深く考えたことはなかったかもしれない。一つ言えるのは、その物語世界を主人公として実際に介入できるところに、ゲームならではの物語表現があると昔から思っていることだ。それが最も露骨にストーリーラインに絡んでくるのは、いわゆる「ルート分岐」や「マルチエンディング」だろう(自分は正直好きではないが)。別にストーリーを分岐させなくても、主人公(=プレイヤー)の介入を物語表現として活かすことは十分できる。最近見かける「QTE」のような要素も、その試みの一つとして理解できるだろうけれど、別にそういうものである必要もない。やや極端に感じられるかもしれないが、自分としては、たんに作中世界の表現として用意されたマップを、主人公として実際に歩くことができるという、その程度のことだけで、十分ゲーム特有の物語表現をしていると思っている。(もちろんそれらが物語表現として「成功」と呼べるほどのものになっているかどうかはまた別の話であるし、高評価に値するマップを用意するのは決して易しくないわけだが。)
 だから実際、自分は昔からマップデザインに対してそれなりのこだわりをもっているし、今後ゲームを作るときに減算的発想にもとづいて、たとえばRPG的な要素の不採用を決めることがあるとしても、マップを完全に削るということはおそらくないだろう。その点、フリゲで時折見かける「ノンフィールドRPG」というジャンルは、「ゲーム性」に特化するならいたって真っ当な選択であると感じている。
 もう一つ、ゲームを表現手段として選ぶ理由には、ストーリーにおける戦闘の描写を(或る意味では)省略したいという願望が少しあると思っている。べつにバトル描写が嫌いなわけではなく、むしろ、たとえば『ドラゴンボール』は大好きだし、自分が漫画やアニメなどの制作に携わらせてもらうことがあれば、そういう戦闘シーンはかなりこだわりをもって作りたいと思っている。(唐突に思い出したから言うが、アニメ『大魔法峠』の格闘シーンは素晴らしい。とくにエリィ戦。マジで必見。)
 けれども、自分がゲーム(のストーリー)を作ろうと考えているときは、率直に言ってバトルの過程なんかはどうでもいいのである。ストーリーで必要なのは勝敗の結果だけだし、しかもそれは基本的には勝利だけだ。新たな敵が現れて、そいつのもつ能力に苦戦して一度は敗れて、修行したり自己反省したりと努力を積んだ結果として敵を撃破する、なんて過程はとくに描写したくない。そこまで尺を割かずに、戦闘中に機転だけで突破するタイプの戦闘描写も考えられるが、別にそういうふうにしたいわけでもない。そのストーリーによって表現したいものが、まったくバトルにないときに、しかしストーリーでバトルが必要なときに、RPGという表現媒体を選ぶというのは、とくに間違った選択ではないと考えている。バトル描写を、いわばプレイヤーに任せてしまうのである。
 もちろんただ投げただけでは、HPの減算と加算という数値のフラットなやり取りになってしまうので、技のエフェクトやBGMにこだわったり、特殊なシチュエーション下における戦闘に設定したりといったように、バトルデザインを施す必要はある。制作コストみたいな観点から言ってしまえば、漫画やアニメとしてしっかり戦闘描写を用意する以上のコストがかかることも決して少なくないし、バランス調整の手間なんかを考えればむしろコストはかかることのほうが多いだろうけれども、これはあくまで表現の力点をどこに置くかという問題である。
 この点、『Seraphic Blue』はまさにそういうストーリー表現になっていると理解している。ゲームとしてはバトルに制作者の強いこだわりが感じられるものの、そのバトル過程はストーリーにまったくと言っていいほど絡んでこない。特徴的なFE(フィールド・エレメント)のシステムも、ストーリーには一切必要のない要素であると言いうる。(ただもちろん、バトル過程がストーリーにまったく絡んでこないというのは、ゲームならではの物語表現を強く志向するなら欠点となりうる。個人的には「バトルは純粋にプレイヤーの腕が試される場であってほしい」と考えているので、無理やり絡めた「イベント戦闘」になってしまうぐらいなら、無関係であってほしいと思うわけだが。)
 あとは消極的な理由だけれども、小説のように読者の想像力に強く依存した表現手段を用いることができず、漫画やアニメを一人で制作する手立てもないので、フリーゲームを作りたいと思っているという部分も、なくはない。文字だけで戦闘描写ができる自信がないし、とくに書きたいとも思っていない。(何なら読みたいとも思っていない。)BGMや効果音を設定したり、画面内にこっそり(二周目で気づきそうな)伏線を張っておきたかったりする。そういうのは、ゲーム以外にはアニメが向いていると思う。しかし一人でアニメを作るのはいくらなんでも難しすぎるだろう。新海誠じゃないんだから。
 こういうことを考えるようになったのは、この一年、とあるフリゲ制作者のTwitterアカウントを見ていたのが大きい。往々にして、優れた「ゲーム性」の作品を作ることに成功した制作者はどうにも(ストーリー重視のRPGを暗に貶しながら)制作ノウハウをTwitterで語ったりするものだが、その人も例外ではなかった。とくに、「ストーリーが一切ないのに演出やBGMや勢いだけで自分は感動できるけど、ストーリーでしか感動できない人もいるからね」という旨のツイートは相当カチンときた。ツイート自体の意味もあまりよくわからないのだが(ストーリーとは独立に演出や勢いに感動するというのはありえるのだろうか、BGMは普通にあると思う)、「ストーリーでしか」という言い方はいったい何なのか。ツイートから本音が見え透いているように思う。
 この人が作るゲームは、二作ほどプレイしたことがあるけれども、フリゲの中でもかなり優れているほうに入ると感じている。自分の作品よりも(ほとんどあらゆる意味で)面白いのは認めるし、こういう作品は自分には作れないなとつくづく思う。けれども、この人もたとえばゼノギアス』のような作品は作れないだろう(「作らない」のではなく)。
 次に一からフリゲを作ってネットに出せるのがいつになるかはわからないが、作る機会に恵まれれば、今度はゲームならではの物語表現を徹底的に志向しようと決めている。最近のフリーゲームでもストーリーに重きを置いた作品がないわけではないけれども、『Seraphic Blue』のようなかたちで重視している作品は、まあ皆無と言って差し支えない。唯一『ワールドピース&ピース』は「フォロワー」的な作品として成功に入る部類ではあったと言いうるだろうが、そして自分はまだ途中までしかプレイしていないけれども、今のところあまり好みではないし、台詞回しにどうにも違和感を覚える。「「パラダイムシフト」ってそういう使い方しなくね?」とか。(まあ進めていくうちにアレは広い意味では作中独特のタームであったと理解できるようにも思えたけど。) 『Seraphic Blue』は難解な言い回しを好む芸風にしては意外と概念語コレクターの高校生みたいな言葉遣いに陥っていなかったのではないかと今になって思う。ぶっちゃけ感覚がめちゃくちゃ麻痺しているので自信はないけれども、読んでられなくなるような要素って、無印版冒頭のフリッツの語りと、度の過ぎた漢字変換ぐらいでは? あとはジークベルトさん。
 ゲームの特性を活かした物語表現を志向するとは言っても、やっぱり物語や舞台設定の表現手段としてゲームを選ぶのは効率が悪すぎる。でも前にも言ったように、「ゲームは所詮ゲームなんだね」みたいな偏見を払拭したいわけで、つまり「ただの暇潰しの遊びと思われているかもしれないけど、そういうゲームばかりじゃない」と言いたい。
 もっとも、そう主張したいだけであれば、何も『Seraphic Blue』や『ゼノギアス』みたいな作品を作る必要は必ずしもなくて、なんなら先に挙げたフリゲ制作者の作品もストーリーに対するこだわりは窺えるし、それで十分反論材料となりうるのだろうけれど、自分はもっと、「古典的な文学作品にも匹敵するようなものが、ゲームでもありうるのだ」と言いたい。そしてそういう作品が近いうちに登場するには、まだあまりにも土壌が成熟していないと感じている。自分が何かを世に出すことによって、少しでも地面を耕すことができれば、と思う。
 
 
5.
 自分の恋愛観は素朴すぎるんじゃないか。
 高校のころは、結婚願望も子どもをもちたいという願望もなかった。自分は誰かの親になれるような人間ではないし、別に一生独りでもいいかなと思っていた。思っていたが、今考えてみれば小六から中一にかけてすごく好きだった女の子がいて、恋愛に対するそれなりに強い憧れは昔からあった、と思う。結婚願望が無みたいなのはフェイク野郎だったのかもしれない。
 みたいに、恋愛願望があったということは結婚願望もあったのだろうと一瞬考えてしまう程度には、恋愛と結婚というのは自分にとってかなり同じものだ。その先に結婚が存在しない恋愛とは、いったい何なのか。ただの不誠実な遊びではないか。そんなふうにも思うが、しかし、真剣に誠実に交際をして、そして付き合って相性が悪かったと判明したのではなくてむしろ仲良くできて、さらには家庭の事情で交際相手とは別に結婚しなければいけない相手が出てきたとか経済的な事情で結婚が不可能であるように思われてきたとかそういうわけでもなく、端的に「恋愛の相手としてはよかったけれども、結婚の相手としては選べないから別れる」というのは、普通にありうる話だ。まあちょっと極端かもしれないが、十分想定可能だろう。
 恋愛と結婚の不一致というのは、以前と比べて理解はできるようになったと思うけれども、今でも共感はできない。以前なら一致しない可能性すら考えなかった。或る種の女性と会話していて初めて気づいたことだ。
 そういう或る種の女性の恋愛観や結婚観は、なんだか悲観的にさえ感じられるのだけれども、実際は自分のほうが楽観的で現実が見えていないだけなんだろうと思うし、自分は子どもっぽいな、という気がしてくる。
 記念日は祝えるなら祝ったほうが楽しいと思う。人間と人間が付き合っただけの日なんて、人間が誕生した日と比べれば大した日ではないかもしれないけど。
 自分の体内にあるとき別の生命が存在するようになる、というのは確かに不気味なことだ。男だからか、あまりリアリティをもっては感じられないけれども、そう思う。
 「食欲」「睡眠欲」「性欲」と三つの欲求があたかも対等な資格をもっているかのように並列されるのは変な感じがする。食欲と睡眠欲は満たさなければ生存に関わるとかそういうことではなくて、三つのうち性欲だけは人間に対して向けられる欲求であるということ。これはちょっと異常で、気持ちの悪いことのようにも感じられる。しかし普段はそんなこと気にもならない。ふと欲求が湧いたときに適当に処理するだけで、考えようと思わなければとくに考える機会もないから。
 恋人同士だった関係が結婚によって変質してしまうこと。そんなことがありうると或る時期までは考えたことすらなかった。自分の父親と母親は他の家庭と比べるとかなり仲が良い部類に入るらしいこともその一因だろう。別にセックスレスじゃないとかそういうわけではなく(というかたぶんレスだろうけど)、まず夫婦喧嘩らしきものを見たことがないし、冷え切っている様子もない。(自分からしてみれば)かなりアレな経緯で結婚したことは知っているけれども、そういうタイプの結婚がここまでうまくいくものなのかと思う。むしろそういうタイプの結婚だからこそ、なのかもしれないが。
 人間が性欲をもつこと、人間が恋愛をすること、人間が生殖をすること、人間が家庭を築くこと、人間が両親を選べないこと、人間が子どもを選べないこと。どんなことも、自分は大して考えていないから楽観的なのだろうと思う。まあ、これから自分なりに考え抜いたうえで、なお結論が変わらないということは普通にあるだろうし、実際、そこまで悲観的に考えたくはない。
 自分の恋愛・結婚願望というのは、孤独に対する恐怖が一つにはある。たとえば死後しばらく経過した腐乱死体として発見されたくない。べつに家庭をもってもさまざまな経緯で最終的に一人になってそういう死を迎えることはあるだろうが、でも結婚によってその可能性から遠ざかることはできると思う。あるいは街中で見かけるホームレスを他人事だと思えたことが一度もない。自分も場合によってはああなるのだろうと、いつも思っている。これも家庭をもったぐらいでは完全に回避できるようなものではないにせよ、遠くなりはするだろう。『ウシジマくん』みたいな漫画も、「明日は我が身」と本当に感じられるので、とにかく読んでいて不安になる。(ただアレをまったく不安にならずに読むことができる人も、そうそういないだろうと思うが。)ああいう恐怖から逃れたくて、比較的安全そうなレールの上を歩いていたいという気持ちはわりとある。
 そんなレベルじゃなくても、単純に自分のそばにいてくれる人がいるのといないのとでは、人間の振る舞いや自己肯定感が大きく変わってくる。たとえば「こいつに嫌われても自分にはあの人がいるし」みたいなのとか。相手を信頼しすぎている気もするが、正直男女関係なくそれぐらい信頼の置ける相手じゃなければ普通恋人には選ばないだろうと思っている。アレな言い方になってくるが、絶対的に信頼できる人しか恋人にしたくないし結婚相手にしたくない。それなりに信頼して合っている男女が付き合っていないというのはまったく不合理なことのようにすら思える。(思えるが、当人たちの意思というものが当然あるわけで、それは尊重されるべきだ。)とにかく、人生においてそういう人を探して選ぶんだから、恋愛というのはかなり深刻で重要なことではないか。
 
 しかし、恋愛ごときで人生を左右されるというのはなんだか馬鹿馬鹿しい気がする。『若きウェルテルの悩み』なんかそうだろう。失恋して自殺するというのは、すごく馬鹿馬鹿しい気がする。馬鹿げているが、実際のところ自分はその種のストレスで精神的に追い詰められた経験が決して少なくない。というか、何なら毎回そうだ。死と女の決断はいつも突然やってくる。あらゆる瞬間に女の決断が迫っていると考えるべきだ。女の決断に惑わされていろいろアレしましたとか言って女を恨むのは違うだろう。恨むなら、その程度のことも見据えられなかった自分の想像力だ。
 あるいは、女の決断に先駆けて自分が決断してもよかったのだろう。そんなこと、怖くて考えたことすらないが。
 
 
 
 いろいろなことを書いていたらかなり長くなってしまった。13000字を超えているらしいが、さすがに嘘なのでは。まあ何でもいいや。これは卒論です。無職卒業論文。 
 2018年は、もう少し生産的なことがたくさんありますように。