書くとは何の謂いか

Was heißt Schreiben?

わからないこと、あるいはわからないということについて

 なぜ哲学を勉強しているのか。ここ一週間ほど頭の片隅でぼんやりと考えていたが、まったくわからなかった。もちろん「なぜ」という問いが要求する答えは場面によって変わるわけだが、それを考慮する必要はとくにないだろう。あらゆる意味で、理由が見つからないからである。
 
 たとえば一つの回答として実存的な動機が考えられるだろう。要するに、なにか悩んでいることがあって、それを考えたくて哲学を勉強し始めた、とか、そういうタイプの動機である。「なぜ哲学をやっているのか」と訊く人の多くは、このタイプの動機を知りたくて質問をしているのだろうと自分は思っている。そして、「なにか悩みがあって哲学をやっている」というのが、哲学科に対する一般的なイメージでもあるのかな、と思っている。
 実際のところ、哲学をやりたい人が全員何かしら悩みをもって哲学をやっているかというと、そういう治療的な感じで哲学をやっている人は(意外と)少ない、というのが四年間哲学科に在籍しての印象である。逆に、勉強する理由に何が多いのかはよくわからないが、たぶん「こういうことに昔から関心があって考えたい」とか、悩みというよりは知的好奇心で哲学をやっているケースが大半かと思っている。(もちろん知的好奇心を満たす、というのもしばしば一種の治療でありうるだろうとは思う。)
 
 自分の場合、そういう動機はまったくないわけではない。二回生の初めのころだったが、時間が流れていくこと、あらゆるものが総じて生成変化していくこと、そうした時間の暴力性にとても耐えられなくなった時期があった。
 きっかけは、母校の文化祭を訪れたことだった。パソコンに残っていた昔のメモなどを見たかぎりでは、もっと以前から時間の暴力性にある種の非情さを感じていたようだったが、とくにこのときが一番切実に感じられていたと思う。あらゆる生成変化が自分を置き去りにして、ただひたすら加速していくような、そういう疎外感を覚えていた。母校になにか思い入れがあってそう感じたというよりは(まあ思い入れはあると言えばあるのだろうが、もっと屈折して、あまり健全ではない、そういう感情だと思う)、こんなことを書くのも恥ずかしいのだけれど、恋愛関係がその根底にあって、そういう疎外感を覚えたのだと思う。言葉だとか感情だとか意味だとか、そういうものが、あまりにもたやすく忘れ去られること。時の流れがもたらす、そういう変化に反抗したかったのである。
 
 こうした疎外感から、やがて「あらゆるものが生成変化するこの世界において、永遠性はどこにあるのか」という問題について考えるようになった。当時は、「なぜ時間は流れてしまうのか」といったように、これを時間論の問題として扱おうとしていた。そんななか、どういう気持ちで手に取ったかは忘れてしまったが、ハイデガーの『形而上学入門』を読む機会があった。そしてそこで彼が、存在を現在のみに定位して解釈することに対して批判を向けていると知って、直感的に、「彼は過去や未来といった領域を護ろうとしていたのではないか」「これは自分が考えたいことに、何かしらのヒントとなるのではないか」と思ったのである。(ちなみにこの直感がどの程度正しかったかどうか、ということにはとくに関心はない。)
 そしてハイデガーの時間論に関心を抱き、いろいろ読んでみたのだが、まあ無理だった。解説書や入門書を探ってみてもわからないし、肝心の『存在と時間』を読もうにも意味不明。貧弱な頭しかなかったので、木田元の書いたものを読んで「なるほどー」と思うのがやっとだった。今思うと、表面的な知識を頭に入れるのが精一杯だったのか、根拠のない断定が紛れ込んでいても気づかなかったし、まったく哲学的な読み方ではなかった。とにかく、そうしてしばらく何もわかっていない、あるいは同じことだが、概念とその連関を形式的・表層的にしか理解できていない、そんな時期が続いていた。
 
 少しずつ分かり始めてきたのは三回生の夏休みごろだった。カントやフッサールがちょっと理解できるようになると、ハイデガーもだんだんとわかるようになってきた。たとえば「本来性」と「非本来性」というのは、カント倫理学で言うところの「人格」と「物件」の区別に対応するんじゃないかなあ、とか、そんなことをぼんやりと思っていた。そんな感じで、「これはこういうことかなあ」と考えているうちに、存在一般の意味への問いがとても身近なものとして感じられるようになってきたのである。(というより、それまでは時間に関心はあっても存在に関心はなかった。)
 そんなこんなで哲学的に物心がつき始めると、カントとフッサールの「超越論的観念論」に興味を抱くようになった。この哲学的教説は、総じて存在者を、生々流転する「現象」と永遠不変の「物自体」とに区別する考えと言っておけば、おそらく大きな間違いはないだろう。というより、当時の自分はそういうふうに理解していたので、「もしかしてこれで永遠性の問題が解決するんじゃないか」と思ったのである。
 だから、どこかの誰かから、メイヤスーが「まったく偶然的にすべては崩壊しうる」だとか主張しているのを聞いたときは、「自分の退けたい暴力性を最も極端な仕方で先鋭化しているやつがいる!」と、倒すべき敵が出てきたのを喜んだし、「なんだか応答責任がある気がする!」とよくわからない使命感に満ち溢れてもいた。
 ちなみに、卒論でメイヤスーに言及する気はもともとなかった。人から、「なんで存在者の存在についてこんなに考えたいと思っているのかわからない」というコメントをもらうことがあって、「実存的な動機とか卒論からは消したかったけど、あまり書く機会はないだろうし、せっかくだし書いてみてもいいかなあ」と思ったりして、それで提出間近になっていろいろと付け加えた。足して論文として完成度が上がったかどうかはよくわからないが、自分としては「なんか今なら黒歴史を生産しても許される感じがするし、もしかしたら偉そうなことが書ける最後のチャンスかも」と思いながら書いていた。執筆中、一番あのときが楽しかった。
 
 
 と、まったく予定外だったが、なぜ自分が超越論的観念論をいいと思っているのかを書いてしまった。ただ、超越論的観念論によって確保されるのは、一見して暴力的なまでの変転を見せることもある現象をじつは統制している「規則」であって、それは(いろんな人に指摘をもらって知ったのだが、)永遠性というよりはむしろ「斉一性」と言ったほうが適切なものだったように思う。たぶん、自分がもともと護りたいと思っていたものとは、少なからず違うのだろう。
 また、今は永遠性を護りたいと思っているかというと、正直そういうわけでもない。以前抱いていたほど切実でなくなった、というのはあるにせよ、最近はむしろ永遠性にどこか恐怖を感じることが多くなった。ずっと変わらないでいることよりもいつでも変われることのほうが、なんというか、柔軟だと思う。
 
 そういうわけで、実存的な動機はたしかに出発点としてはあったものの、今は希薄かなあと思っている。知りたいと思っていることはなくはないが、自分がやらなくても解明される気がしてしまうし、そしておそらくそれを読んだら満足してしまうだろう。
 
 
 一週間ほど、あるいはそれ以前から、頭の片隅でぼんやりと気になっていたことを言うのだが、哲学を勉強したいと思っている人たちは、幼いころに独我論的な気持ちになったり、反自然主義的な気持ちになったり、観念論的な気持ちになったり、有限的な気持ちになったり、とにかくそういうなんらかの気持ちになっていたりしたのだろうか。そうだとすると、自分はそういう気持ちを抱いた経験が、記憶の及ぶかぎりでは見当たらないし、なんだか引け目のようなものを少し感じてしまう。哲学を勉強してみようと思ったもともとの動機も、今思うと勘違いにもとづくものでしかなかったし、じつは自分はあんまり哲学をやりたいと思ってないんじゃないか、としばしば思う。
 
 まあ、そういうことは一回生のころから思っていたことでもある。自分の求めていたものが哲学にはないように思われて、まったく面白く感じられなかったし、適性もあまりないように感じていた。
 それで、とにかく無気力で大学にほとんど行ってなかったぐらいだったのにもかかわらず、上述してきたような感じで、二回生のころにめでたく勉強したいと思えるようになったわけだけど、この話にはもう一つ裏のようなものがあると(以前から)思っている。
 
 要は、ストーリーに乗っかりたかったのだ。「実存的な悩みを抱えていたときに哲学書を読んでみたら、なにか直感的に掴み取れたものがあって、そこから問題が解消される糸口を探っていこうと思って勉強を始めた」というのは、ありがちだし、わかりやすいし、なにより「こういう動機で哲学を勉強できたらカッコいいなあ」という自分の潜在的な欲求を満たしてくれる筋書きだった。そう考えてみると、あのとき抱えていた「悩み」も、ストーリーに乗っかりたくて捏造されたものにすぎないんじゃないか、と思えてくる。
 そういうストーリーに乗っかって、あたかも「自分は寝ても覚めても存在について考えてます」みたいな顔をして、ゼミに出席して、講義を受けて、読書会をやって、飲み会で会話して。まあ、そういうふうに振る舞っていれば本当は自分がどう思っているのかなんてことはよくわからなくなってくるし、実際のところ、とても楽しかった。
 
 今は、言ってみれば「シラフ」に戻っている時期なのかなと思う。これまで乗っかっていたものの脆さに直面した、と言うべきなのだろうか、ちょっと違う気がするけど、まあ大きく外しているわけではなさそう。いや、根拠が無だったということに気づいた、と言うべきなのかもしれない。わからない。わからないといえば、「自分がなぜ哲学を勉強しているのか」も、こうやって書いてみたら少しはわかるかと思ったが、よくわからないままだった。
 
 ただ一つわかったことがあるとすれば、何かに乗っかりたいという気持ちはもうあまりないらしい、ということである。