書くとは何の謂いか

Was heißt Schreiben?

混雑した自己了解について

 とある人に、「自分のことを全然話さないね」と言われた。
 
 とくにそういうつもりでもなかったし、話すべきことがあるとすれば、それはもう一通り伝えたような気もしていた。つまり、自分のことを話す必要性をあまり感じていなかった。
 自分の話というと真っ先に思いつくのは、好き嫌いとか趣味とかよりもむしろ、過去に経験したこととか、とにかくそういうのだが、自分の過去を振り返ってみても、誰にでも話せるような内容はあまりない、と思っているし、いつからか、親しい人間に話すとしても、それは最低限で済ませよう、と思うようにもなった。
 
 昔から人見知りするほうではあったものの、以前は、打ち解けさえすれば「いろいろと自分のことをすぐ話すね」と言われたりしたこともあったように思う。けれども、他人がどれぐらい自分に関心があるのかとか、一方的に早口で文脈を無視して喋り始めたりしてしまってないかとか、そういうことが気になり始めるようになって、いつしか自分の話をするのに、極端な抵抗が出てきてしまったというのも事実である。「自分のことを話さないね」と言われて、初めて自覚的になった。
 
 この「初めて自覚的になった」という言葉が示唆的かもしれない。自分のことを話さないと、自分の考えていることや思っていることを言語化せずに、あるいは言語化するとしてもせいぜいおおざっぱなラベルだけ貼り付けて、奥底に沈めておく、といったようなことが増えて、とにかく大抵のことは自覚的にならない。言ってみれば、自己了解が混雑した状態になっている。
 そのせいなのか、自分が何を好きで何を嫌っているかなんてことも、じつはよく知らないし、仮に好きか嫌いかがハッキリしていたとしても、なぜそれを好んでいるのか、なぜそれを嫌っているのかがわからない、といったようなことも珍しくない。もっとも、この程度の自己了解の混雑は一般に珍しくないかもしれないが、自分の場合は、たとえば本はもちろん、漫画やアニメやゲームなどに触れたときに、感想・コメントを求められても、なんだかぼんやりとしたことしか言えない、という程度に、自分が何を気に入って何を気に入らなかったのか、楽しかったとかつまらなかったとか、そのぐらいの素朴な感想は抱いても、具体的に何なのかはまったく言えないということが珍しくなくて、けっこう真面目に困っている。
 
 こういうふうに言語化をサボることの弊害は自己了解以外の面でも見られて、たとえば、時事ネタとか、またTwitterでタイムラインに流れてくるさまざまなツイートとかに対して、ぼんやりと思うところがあっても、ぼんやりと思ったまま見なかったことにしたり、そのまま忘れたりしている。ときどき「何を考えているかよくわからない」と言われることがあるけれども、おそらくほとんど何も考えていないというのが実情に近いのだと思う。
 
 言語化をサボっているくせに、先に書いた自分の話をすることへの抵抗もあいまって、自分の言語行為が周囲に対してどういう影響を与えるかがすごく気になり、Twitterが少し窮屈になってしまった。
 「これをツイートするのはどうなのだろうか」ということをよく考えてしまう。鍵アカウントだし、スクショでも撮られないかぎりはべつに炎上するということはないとは思うものの、140字以内の文字情報で何かを誤解なく伝えるのは難しい。字数を費やせばいいのかもしれないけど、ツイートをして、それに続く次のツイートを考えているうちに、なんらかリアクションがきてしまうのではないか、とか考え始めてしまうともう一気に面倒になる。
 ツイートの末尾に「続く」とでも書いておけばいいのかもしれないが、「続けないといけない」といった感じに、なんだか拘束が生じるような気がして、今度はそもそもそこまでしてツイートするほどの情報かどうか考え始めてしまう。考え始めてしまうと言っても、ほとんど考えず、数秒で諦める。仮に誤解なく伝わりそうなツイートが140字以内で書けたとしても、日本語がおかしくないかとか、頭の悪そうなことを言ってないかとか、いろいろなことが気になってしまって、ツイートせずに消してしまうことも多い。
 
 
 昨日、眠れなくて、自分がいつかどこかで書いたらしい、ブログの下書きのようなものを読み返した。日本語が拙いというか、背伸びした表現というか、言葉足らずというか、あるいは、「この人に対してこんな言い方しなくてもいいのに」とか、「昔の自分はこんなに人間を見下していたのか」とか、ある種の幼さ――ところで、この「ある種の」という言葉もしばしば思考を曖昧にしておくために使われているように思えるし、今の自分の用法も例外ではない――を感じた一方で、「昔の自分はこんなことを考えていたのか」とか、「このときの考えていたことや抱いていた感情はもう忘れてしまったな」とか、とにかく「さまざまな」思いが生じた。
 
 ある程度まとまった自分の考えやら気持ちやらを、不完全ながらも文章として残しておく。そういう作業をここ数年(大学のレポートなど以外で)まったくしていなかったような気がするし、現に今、こうやってブログを久々に書いてみて、なんというか、不自由な感じがする。こういうふうに、気楽に文章を書いていたときの感覚がよくわからなくなっている。昔は5000字ぐらい、もっとスラスラ書いていた記憶があるが、今書いているこの記事はまだ2000字にも満たない。句読点の打ち方もわからない。文と文のつなげ方もわからない。どれぐらいゆるく書いていいのかもわからない。どういうふうに話題をつなげて、あるいは飛躍させていいかもわからない。とにかく、書きづらい。
 
 少しリハビリも兼ねて、何の需要があるのかもわからないが、そんなことはまったく気にせず、このブログでハッキリと言語化することを習慣づけてみたいと思う。べつに毎日書くつもりはまったくないが、とにかく何かぼんやりと思って、Twitterにも書きづらいと思ったことは、こっちに書く。というか140字以内でまとまったこと書くの無理。「寒すぎてサーモグラフィーになった」とかぐらいしか書けることないだろ。
 
 と、ここまで書いてきてなんだかちょうどよく疲れてきた。こんなに時間かけて書くつもりはなかったんだけどなあ。
 
 そういうわけで、書いてみたいことは全くないわけではないし、気の向いたときに、少しずつなにか書きます。まずは混雑した自己了解を判明にしていこうと思う。